坪井玄道は嘉永5年(1852)1月9日、当時東葛飾郡鬼越村のこの地で、農業坪井嘉助の二男として誕生。幼名を仁助といい、14歳の時江戸に出て英語を学びました。
 明治5年(1872)東京師範学校が創設されると、アメリカ人教師スコットの通弁官(通訳)として教壇に立ち、自らも英語と算術の授業にあたりました。
 明治11年(1787)政府は体育教師の養成機関として体操伝習所を設置、アメリカから医師リーランドを招きましたが、この通訳に選ばれたのが玄道で、彼が体操教師としての道を開いたのは、実にこの時からだったのです。
 リーランドの帰国後は、玄道が主任教師となりました。彼は 「戸外遊戯法一名戸外運動法」 を出版し、老若男女誰にでもできる運動をつくり上げることに懸命となり、また 「普通体操法」 と題した教科書の刊行に尽力して、広く体操の普及に務めたのです。
 玄道が体操研究の目的で、ヨーロッパに留学したのは明治34年のことで、留学先では、滝廉太郎・巌谷小波等と交流があったことが、残された絵葉書などからわかります。帰国後はさらに新しい舞踏や行進運動の紹介と指導にあたりました。
 ところが、自由主義的な健康で明るい豊かな人間づくりを目指した玄道たちの、「体操遊戯併用」 による体育論を展開した 「普通体操」 は定着しませんでした。これは、わが国が日清・日露戦争を経験する明治35年ころから、軍国主義的な兵式体操や合理的なスウェーデン式体操が普及するようになり、大正2年(1913)になると、これらを採り入れ作成された永井道明による 「学校体操教授要目」 が、文部省から制定交付されるに至ったからです。
 玄道は大正11年(1922)11月2日、70歳で世を去りましたが、彼の大きな業績は、わが国にこれまでなかった欧米スポーツの中から人々にあったスポーツを選び、紹介や普及に努めたことです。体操のほか、今日一般に競技されている野球・ボート・卓球・サッカー・テニス等も紹介し、普及に尽力しており、わが国体操の父とまで仰がれました。 (市川市教育委員会)

 

坪井玄道生誕の地説明

「治水とやすらぎ」 碑
千葉県知事 沼田武書

大須賀力作 「回想」 平成4年3月建立

境橋橋標

真間川下流域

桜が植えられた真間川上流域