合戦で討ち取られた西軍将士の首は、家康によって首実検され、その後、塚を作って懇ろに葬られました。
 首実検に先立ち、首装束のため、この井戸水を使って首級の血や土などが洗い落とされたと伝えられています。
 戦国期の戦場では、首実検後は敵味方の戦死者を弔い、供養塚を築くというのが習わしだったのです。
 (関ヶ原町)

 この塚は関ヶ原の戦い直後に、この地の領主竹中家が築いたもので、家康によって実検された将士の首が、ここに眠っています。
 文部省の史跡指定時に、標柱や石柵が建てられた後、昭和17年には、徳風会によって、名古屋から山王権現本殿・唐門が塚の脇に移築されて、東西両軍の戦没者供養堂となりました。
 (関ヶ原町)

 この碑は、関ヶ原宿年寄古山兵四郎が首級への思いを込めて建てたもので、その要旨は次の通りである。
 「英傑なる徳川家康が東国に於いて勢力を拡大したため、石田三成は豊臣政権不利と見て旗を揚げた。
 慶長5年(1600)9月両勢力はここ関ヶ原において激突したが、内応などの戦況の急変により、三成側は大敗を喫した。家康は床几場において首実検をしたのち、土地の人に、すべての首や遺骸を、東西二か所に首塚を造り葬らせた。
 東軍に敵対した西軍将士に罪がないとは言えないが、主君秀頼のために命を捧げたことに他ならず、憎めるものではない。故に、豊臣の危機に直面し犠牲になった者を納め葬ることは、仁義に厚い心得の成し得ることであり、まさに家康の教えが、今の世に泰平をもたらしたと言えよう。
 将来この首塚が、丘や谷に変わり果てることのないよう乞い願うものである。」
 文化14年(1817)中国・姑蘇・楊小渓漢訳
  (関ヶ原町)

首級墳碑説明

東首塚説明

首洗いの古井戸説明

首洗いの井戸

小御堂の一光三尊阿弥陀如来

小御堂

側面に関ヶ原戦役陣歿者各霊追善供養塔と刻まれている

宝篋印塔

霊木

関ヶ原古戦場碑

首級墳碑

供養堂の阿弥陀如来

東首塚の扁額が掛かる唐門

山王権現社本殿の供養堂