文和2年(1352)南北朝争乱の砌、北朝後光厳院帝には南軍の追討を避け、6月13日比叡山を経て当地に御到着され、長屋長者家敷を仮御所として旅装を解き給う。当国守護職土岐大膳大夫頼康急ぎ長者家敷南に黒木御所の造営にかかるも、美濃の南軍原蜂屋の軍勢御所を襲う気配見えたれば、足利義詮は後光厳院帝を揖斐郡小島の頓宮に奉遷申し上げ、鎌倉に対し大納言の西上を促し、諸般の配備を了して自らは京に進軍せり。足利大納言の尾張到着の報を聞かるるや、帝には小島の頓宮を御立ちになり、8月25日垂井の黒木御所に御還幸あり、早速京の祇園社に対し戦勝祈願の論旨を発し給う。祇園社社僧顕詮並びに宰相律師顕深は、御祭神の御霊代を唐柩に納め奉持して垂井に下降、直ちに御所に参内し、28日には帝の御安泰祈祷を厳修したる処、霊験あらたかにして京では、南軍の勢力とみに衰えたり。足利義詮は京を平定して御所に戻り、其旨奏上す。里人は御還幸を祝し、御心労を案ずる為、花車3台を作り御高覧に供す。これ垂井曳山祭りの濫傷なり。
 足利大納言高氏御所に祇候し、9月25日帝には京に御還幸あり。時に御所板葺の宮の天王様を当地産土神として奉祀する事となり、牛頭天王社と命名。御下賜相成り茲に初めて氏神としての創始を見るに至れり。天文元年城主長屋影重新たに垂井明神の南現在地に神地神殿を寄進し、板葺の宮より御遷宮申し上げたり。御祭神は、山の神、水の神、農耕の神としての御神徳もさることながら、厄難消除の神、文学芸能の神、教育勇武の神として、日夜、垂井の里を初め、近郷の人々崇敬する処なり。
 明治元年神仏分離令により神社名を御神詠の夜幣賀伎を取り、八重垣神社と改称せられ垂井の総氏神と仰がれて今日に至る。

八重垣神社由緒

後光厳天皇勅願の宮碑

宝暦13年(1763)の秋葉社・金比羅社

神門

八重垣神社拝殿

手水舎

八重垣神社鳥居

さざれ石

手水石

天皇陛下御即位奉祝記念植樹の松