戦がたけなわとなると、家康は本営を桃配山から笹尾山の東南1㎞のこの地点に進出させました。
ここで、家康は陣頭指揮に当たるとともに、戦が終わると、部下の取って来た首を実検しています。
周囲の土塁や中央の高台は、天保12年(1841)に幕府の命により、この地の領主竹中家が築いたものです。
(関ヶ原町)
関ヶ原合戦終了後、徳川家康は部下が取って来た敵の首を一つ一つ確認している場面で、ここを首実検場という。
天下分け目の合戦で有名な関ヶ原合戦は、豊臣と徳川がその運命をかけた一大決戦であった。慶長5年(1600)9月15日、午前8時頃、井伊・松平が先ず進出して宇喜多の隊に向って戦端を開いた。これを見た福島の隊は、宇喜多の隊を攻撃した。かくて戦機を得た東軍右翼の諸隊は石田・小西の隊を攻撃、左翼の藤堂・京極の隊も大谷の隊と交戦し、戦いはいよいよたけなわとなった。
家康は最初桃配山にあったが、午前11時頃には、陣馬野に進出して全軍を指揮した。
松尾山上の小早川秀秋はかねてから家康に反応の約があったので、遂に反旗を翻して大谷の隊を突いて来た。
小早川等の反応で大谷の隊が潰滅すると形勢は逆転した。そして最後に島津惟新は東軍の中央を突破し、伊勢街道への脱出に成功した。
その結果東軍が大勝し、徳川家康は、2世紀半に渡る泰平の世を実現することになった。
床几場跡中央に建つ徳川家康進旗驗馘處碑
関ヶ原古戦場標柱
関ヶ原古戦場 徳川家康最後陣地碑
床几場周囲に組まれた土塁
土塁を囲む竹矢来
床几場跡
陣場野の床几場絵
関ヶ原合戦説明
徳川家康最後の陣地説明