天下をわける壬申の大戦(いくさ)は1300年程前であった。吉野軍を率いた大海人皇子は、不破の野上に行宮(かりのみや)を置き、わざみ野において、近江軍と向き合っていた。急拵えの御所に、皇子が入ったのは、6月27日である。野上郷をはじめ、不破の村人たちは、皇子を慰めようと、よく色づいた山桃を三方に載せて献上した。
「おお、桃か。これは縁起がいいぞ!」 皇子は、行宮に着くが早いか、桃の出迎えにあって、小躍りして喜んだ。紅の小さな山桃を口に含むと、甘酸っぱい香が、口の中一杯に広がる。皇子は、はたと膝をたたき、不破の大領をよんだ。「この不破の地は、山桃の産地であると聞く。なかなか味もいい。どうだろう。わたしはこの桃を、軍団兵士みんなに一個ずつ配ってやりたい。戦場における魔除けの桃だ。これを食べて戦場に出れば、武運百倍。もりもりと働いてくれよう。大領、この近郷近在の山桃をすべて買い上げ、軍団兵士みんなに、わたしからの桃だといって、配ってくれ。」
大領、宮勝木実(みやのすぐめこのみ)は、胸を打たれて平伏した。木実は行宮所在地の大領(郡長)として、御所を建て、皇子をおまもりしている。「有り難いことでございます。戦勝に繋ぐ縁起のいい桃。兵士の命を守る魔除けの桃。天子さまから賜った尊い桃。全軍の兵士はもちろん、村の者たちも、涙を流して喜び、存分の働きをしてくれるでありましょう。」 この時、木実が確信した通り、この桃を押し頂いた数万の将兵の士気は、いやがうえにも高まり、連戦連勝、遂に大勝を果たしたのであった。この桃の奇縁により、この桃を配ったところを桃配山とか、桃賦野と呼んで、今に伝わっている。900年の後、徳川家康は、この快勝の話にあやかって桃配山に陣をしき、一日で、天下を自分のものとした。
桃配山
家康最初陣地説明
桃配山説明
松尾山江三十九丁 笹尾山江二十八丁
徳川家康本陣古趾碑
徳川家康最初陣地跡
徳川家康がテーブルと腰掛に使用した石
関ヶ原方向を望む
慶長5年9月15日未明に、家康の配下3万余は、ここ桃配山周辺に陣取り、家康はこの山頂において、大馬印を高々と掲げ指揮にあたりました。
最後の陣地に移るまで、各陣営からの報告をもとに、しきりと作戦会議が開かれたと思われます。
ここにある2つの岩は、家康がその折にテーブルと腰掛に使用したと伝えられています。
(関ヶ原町)
昭和6年3月 国指定史跡
関ヶ原古戦場徳川家康最初陣地碑
古趾碑の裏面