垂井一里塚
徳川家康は、街道整備にため、慶長9年(1604)に主要街道に一里塚の設置を命じた。これより、江戸日本橋を起点として一里(約4㎞)ごとに、5間(約9m)四方、高さ1丈(約3m)、頂に榎を植栽した塚が、道を挟んで2基ずつ築かれた。
垂井一里塚は、南側の1基だけがほぼ完全に残っている。旅人にとっては、人夫や馬を借りるのに里程を知り、駄賃を定める目安となり、その木陰は格好の休所となった。
国の史跡に指定された一里塚は、中山道では東京都板橋区志村のそれとの2ヶ所だけであり、交通史上の重要な遺跡である。
浅野幸長陣跡
幸長(よしなが)は、五奉行の一人であった浅野長政の嫡男で、甲斐国府中16万石の領主であった。
関ヶ原の戦いでは、豊臣秀吉恩顧でありながら石田三成と確執があたため東軍に属し、その先鋒を務め、岐阜城を攻略。本戦ではこのあたりに陣を構え、南宮山に拠る毛利秀元ら西軍勢に備えた。
戦後、紀伊国和歌山37万6千石を与えられた。
(垂井町教育委員会)
垂井一里塚説明
国指定の史跡である垂井一里塚(南塚)
垂井一里塚標柱
浅野幸長陣跡の幟