鶏龍山真念寺略縁起によれば、寛正年中、池田家の舎弟出家して、南方六坊の内、真念坊に住い、文明年中、本願寺第8世信證院殿の御教聴聞し、六坊各々浄土真宗に帰依す。
文禄年中、大阪石山合戦の時、織田信長に諸堂焼払いにあうも、真念坊に因縁の深い第4世兵勝相続する。
天和2年に山号及び寺号を賜り、その名を 「鶏龍山真念寺」 と称す。
享保元年、この地に鐘楼等移転せしも、280年の間、風雪に耐え今日に至るも、破損が激しく、今般門徒及び有縁の皆様により鐘楼の再建築となり、ここに記す。
平安の中頃、都の吉田少将がここ野上の長者宅に泊まった際、給仕の花子と契りを結びます。少将が東国へ発った後、生まれた梅若丸は夫の許へと送られます。便りが無いので花子も後を追い探しますと、夫は都に帰り、梅若丸はつい先頃亡くなったことを知ります。
花子は狂気して野上に戻り、ひたすら観音を念じたと言います。中央に祀られているのが花子の観音像です。
これは昔の中国の班女の話に酷似していることから、その名がつきました。
(関ヶ原町)
観音堂内陣
班女(はんじょ)の観音堂説明
班女の観音堂
本堂に掛かる鶏籠山の扁額
鐘楼
真念寺本堂
冠木門前の小社の班女像?
真念寺由緒碑