鹿児島県日置市の青少年で組織する関ヶ原戦跡踏破隊は、昭和35年(1960)から毎年夏休みを利用して関ヶ原から大坂までの島津勢退路を踏破しています。(途中電車等も利用)
 この名碑には、これまでの参加者の氏名、年齢を刻み、その労苦を称えるとともに、郷土の先輩方に負けぬ立派な大人に成長できるようにとの自戒の念を込めて設置しています。
 また、関ヶ原戦跡踏破隊が取り持つ縁で、関ヶ原町と日置市(旧伊集院町)は、昭和38年に兄弟都市盟約を結んでいます。
 (関ヶ原町)

 戦国の雄・島津軍団千人を率いた義弘は、北国街道を抑えるため、ここ小池村に陣をかまえました。
 西軍がことごとく敗退する中で、「西軍に島津あり」 の勇姿を家康に見せつけるため、義弘は最後の賭けに出たのです。「背進」 を最強の武器に変えたその決断こそ、現代まで語り継がれる 「敵中突破」 なのです。
 (関ヶ原町)

道標
(←関ヶ原合戦開戦地3丁      
    笹尾山石田三成陣地3丁→)

島津義弘(惟新)陣跡説明

「関ヶ原戦跡踏破隊」 の名碑説明

島津の旗

小池島津義弘陣跡碑

小池島津義弘陣跡碑

関ヶ原戦跡踏破隊の名碑

島津義弘陣跡の幟

木々の間から小池神明神社が見える