西暦1600年(慶長5年)9月15日(現在の暦では10月21日)、徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍がここ関ヶ原盆地で激突した。
 豊臣秀吉亡き後、自らの時代を開こうとした徳川家康は、同年6月会津上杉攻めを口実に大坂を離れ三成の挙兵を誘い込んだ。8月会津攻めから引き返した家康は、9月1日江戸を発ち、14日には美濃国赤坂に着陣した。この間家康は豊臣政権内の諸将の反目や政治的矛盾を利用し、豊臣恩顧の武将の多くを東軍に引き入れた。一方豊臣家への義を重んじた三成は8月下旬から大垣城に立て籠ていたが、急遽14日の夜大垣城を出て早朝には関ヶ原に布陣し、本陣をここ笹尾山に置いた。一方東軍も西軍の動きに呼応し、午前7時頃には家康は関ケ原の桃配山に陣取った。
 午前8時、東軍の先鋒福島正則隊を出し抜いて井伊直政隊が発砲し、かくして決戦の火蓋は切られた。地形を利用して東軍を誘い込み、包囲攻撃の陣形を取った西軍が有利な様相だったが、一進一退の攻防が続いた。しかし、かねて家康と通じていた松尾山の小早川秀秋が一向に反応しないことに業を煮やした家康が、小早川の陣に向けて誘い鉄砲を撃たせると、気が動転した小早川は味方の大谷吉継隊を襲い吉継は自刃、ここに形勢は逆転した。
 正午過ぎ家康は総攻撃を命じ、小西行長隊、宇喜多秀家隊と崩れ、頑強だった石田隊も敗走をはじめた。桃配山家康本陣背後の南宮山の毛利隊も、内応した吉川広家に阻まれ最後まで参戦することなく陣を引いた。最後に残った西軍の島津義弘隊は、正面から敵中突破を敢行し、多良方面へ去り、家康の追撃中止命令が下った。時に午後2時半の事である。
 天下分け目の合戦を制した家康は、西軍諸将の内、88家を改易にし、5家の所領を大きく削ったという。その後大坂の陣で豊臣氏を滅ぼし、徳川3百年の太平の基礎を築いたのであった。

関ヶ原合戦陣形図

関ヶ原合戦のあらまし

石田三成陣地説明

 ここ笹尾山一帯の石田隊6千余は、正面に竹矢来の柵を二重に配置し、前衛隊長の島左近らの指揮のもと、すさまじい死闘を展開しました。
 小早川らの裏切りは、戦況を一変させ、西軍の実践兵士は3万5千前後に激減し、西軍の敗色濃厚となるや、最早これまでと三成は北国街道沿いに敗退していったのです。
 (関ヶ原町)

竹矢来から関ヶ原を望む

陣跡碑の奥には東屋がある

見晴らし台が設置されている

大一大吉大万の旗が立っている

南宮山(徳川の陣)方向を望む

二重の竹矢来の柵

笹尾山 石田三成陣跡碑

皇太子殿下明治43年御野立所碑

関ヶ原古戦場 石田三成陣跡碑