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中山道   (日本橋~上尾)

日本橋から上尾までは、板橋宿、蕨宿、浦和宿、大宮宿、上尾宿とあり、約42kmの道程である。

平成25年6月1日(土)☀  日本橋~戸田(蕨宿)  21.1㎞
天気予報では雨の予報もあったが、時折、陽も射していたので中山道を始めることとした。

日本橋 日本橋魚河岸跡 筋違見附跡 昌平橋
日本橋の上は、高速道路が橋全体を覆い隠しいる。
現在の橋は明治44年に架けられたそうである。
橋のたもとには、日本道路元標のレプリカや道の碑、里程標がある
日本道路元標の反対側に日本橋魚河岸跡として日本橋魚市場発祥の地の碑が建っている。
日本橋川沿いには、幕府や江戸市中で消費される魚を荷揚げする魚河岸があり、鮮魚を満載した船が数多く集まる活気に満ち溢れた場所だったという。

日本橋を出て直ぐ須田町辺りで旧跡の筋違見附跡の木札があるはずだったので探すとガードの壁に貼られていた。この通りは御成道と呼ばれ、歴代将軍お上野寛永寺墓参の道筋であったと記されている。
ガード下には、中山道の道標がある。
昌平橋の架設は古く、寛永年間(1624~1644)の架設といわれている。この橋は、一口橋(芋洗橋)、相生橋などの名で呼ばれたこともある。
元禄4年(1691)将軍綱吉が湯島に聖堂を建立したときに孔子誕生地の昌平郷に因んで昌平橋と改名した。

神田明神 道標 本郷薬師 東大赤門
神田明神の歴史は古く、天平2年(730)の創建といわれる。
祭神は平将門を祀り、江戸城の表鬼門守護で江戸の総鎮守である。江戸三大祭の一つの神田祭は江戸城内に入り歴代将軍が上覧したという。
境内には明治天皇御臨幸記念碑が建っている。
旧道は鳥居脇から右手の明神甘酒の老舗天野屋さんの脇を入って行く。
天野屋さんの塀には、中山道の緑の道標が貼られている。
本郷三丁目交差点を越えて左側に提灯の架かった山門がある。
奥には小さな本郷薬師堂が建っている。本郷薬師堂は、清賢法印が寛永14年(1636)中興した富元山真光寺の境内に寛永10年(1670)建立したという。
真光寺は、第二次世界大戦で焼失し、世田谷区へ移転した。
本郷薬師から程なく右手に東大赤門がある。
大学の敷地は、加賀藩上屋敷跡である。
赤門は、文政10年(1827)に第11代将軍徳川家斉の娘溶姫が、前田家に嫁いだときに建立された朱塗りの門である。
赤門前はイチョウ並木が続いている

大圓寺 白山神社 真性寺 巣鴨地蔵通り
本郷弥生交差点の先のT字路を左折して白山に入って先に進むと、曹洞宗大圓寺の寺標が道路脇に建っている。大圓寺は国指定史跡であり、幕末の砲術家高島秋帆の墓や、明治時代の小説家斎藤緑雨の墓がある。
また、火あぶりの刑に処せられた八百屋お七を供養する 「ほうろく地蔵」 が安置されている
白山上交差点から左に折れていくと、やや高台の上に白山神社がある。
創開は古く、天暦年間(947957)に加賀一宮白山神社を現在の本郷一丁目の地に勧請したと伝えられる。境内には、約3,000株の多様なあじさいがあり、毎年6月に文京あじさいまつりが催されている。
街道に戻って先に進み、JR山手線の巣鴨駅を過ぎると、とげぬき地蔵入口のT字路左側に真性寺がある。
境内には、江戸六地蔵の第四番である銅造地蔵菩薩坐像がある。正徳4年(1714)頃に建てられたという2.68mの高さの像である。
また、芭蕉句碑、大震火災遭難者供養塔が建っている。
巣鴨地蔵通りは、いつものことながら年配者で混雑している通りである。通りの入り口には、「すがもんのおしり」 なる触れることのできるオブジェが建っている。
店先に 「おばさまランチ」 とメニューを出している食堂もある。

高岩寺 庚申塚 勧明寺 中山道板橋宿の看板
地蔵通商店街に入ると右側に曹洞宗萬頂山高岩寺がある。ご本尊は「とげぬき地蔵」として霊験あらたかな延命地蔵菩薩である。この地蔵菩薩は秘仏であり、見ることはできないが、その姿を元に作られた御影(おみかげ)に祈願してもご利益があるとされている。
境内にある聖観世音菩薩像に水をかけ、自分の悪いところを洗うと治るという信仰もいつしか生まれた。俗にいう 「洗い観音」 である。
高岩寺から600m程進むと、都電荒川線の手前に庚申塚がある。この庚申塚は、明暦3年(1657)の江戸の大火後に造られた。
この庚申塚には、赤い布をまとった猿が鎮座しているが、巣鴨近辺の有志が、明治初期に千葉県銚子市の猿田神社から猿田彦大神を分祀したことによるものである。
高速道路の下を通って板橋宿に入ると直ぐ右手に如意山観明寺がある。
参道入り口にある庚申塔は、寛文元年(1661)に造られたもので、青面金剛像が彫られたものとしては、都内最古のもので、区の指定有形文化財になっている。
境内の稲荷神社は、加賀藩下屋敷内に祀られていた三稲荷のうちの一社で、明治になって遷されたものである。
中山道仲宿交差点には中山道板橋宿の看板が立っており、「日本橋より二里二十町九間 これより北上すれば上州高崎を経て越後路・木曽路に至る」 と記されている。
看板の下には、中山道板橋宿の石柱が建っており、側面には 「日本橋二里半」 と刻まれている。

遍照寺 板橋本陣跡 板橋 中山道板橋宿の石碑
中山道仲宿交差点の直ぐ先、右手に遍照寺がある。江戸時代は、区内唯一の天台宗寺院だったが、現在は成田山新勝寺の末寺となっている。
境内は、宿場時代の馬つなぎ場で、幕府公用の伝馬に使う囲馬、公文書伝達用の立馬、普通継立馬などがつながれていた。
参道口には、寛政10年(1798)の馬頭観音が建っている。脇には弘法大師霊場の石柱が建っている。
㈱飯田不動産の敷地内に板橋宿本陣跡の石柱が建っている。
板橋宿本陣は、古くは飯田新左衛門家ら数家で務めていた。
近くの和菓子店新月堂の前には、お店の方が建てたと思われる木柱道標が建っている。

板橋本陣跡から程なく石神井川に架かる板橋を渡る。
橋の袂には、距日本橋二里二十五町三十三間と書かれた木柱が建っている。
板橋の地名は、この橋に由来しており、往時は太鼓橋であった。
板橋を渡って暫く行くと、交番の脇に中山道板橋宿上宿の石柱が建っている。
平成14年は、中山道に伝馬制度が成立したとされる慶長7年(1602)から400年目にあたり、これを記念して各宿に石碑を建立したという。
交番の手前の広場には、火の見櫓のような木造建造物がある。

縁切榎 旅籠風の居酒屋 南蔵院 志村一里塚
交番の直ぐ先に縁切榎が立っている。
男女の悪縁を切りたい時や断酒を願う時に、この榎の樹皮を削ぎとって煎じ、ひそかに飲ませるとその願いが成就するとされた神木である。皇女和宮降嫁の際には、榎を避けるための迂回路が作られた上、榎を薦(こも)で覆ったといわれている。
環状7号線を横切って旧道を進み、国道17号線と合流してすぐ右手に旅籠風の居酒屋 「中仙酒場さぶろく」 がある。 都営三田線本蓮沼駅の先に南蔵院がある。宝勝山蓮光寺と号する真言宗寺院で、ご本尊は十一面観世音菩薩である。当初、南蔵院は荒川低地にあった「道生沼」の畔にあったが、度重なる洪水により現在地に移転したと言われている。
境内には、庚申地蔵、庚申塔、供養塔などが安置されている。
志村警察署を過ぎると日本橋から3番目の一里塚がある。
一里塚が対で残っている場所は数が少ないのだが、この一里塚は、榎が生える完全な形で対で残されており、国の史跡にも指定されている。

庚申塔と道標 清水坂 環八通り 志村橋
一里塚の先の志村坂上交差点を横断して、みずほ銀行と坂上交番の間を入って行くのが旧道である。旧道に入って進むと、左手の民家の脇に万延元年(1860)の庚申塔と道標が建っている。
道標には、「是より大山道幷(ならびに)ねりま川こへ(川越)みち」 と刻まれている。
旧道を進み左側に清水坂の石柱がある。
ここから下り坂となり、大きく蛇行して平らになる手前にも清水坂の石柱が建っている。
清水坂を過ぎて国道17号線に合流したあと環八通りを越えて、再び旧道を行くことになるが、国道17号線の一本隣(北側)が旧道である。写真中央の白いビルの右手の道を入って行く。 先に進み志村坂下交差点の手前で国道17号線に合流し、ここから暫く国道を歩くことになる。
国道を900m程進み、新河岸川(しんがしかわ)に架かる志村橋を渡って舟渡に入っていく。
新河岸川は、埼玉県狭山丘陵に源を発し下流で隅田川に合流している。江戸時代は、物資の輸送など舟運ルートとして使用された。

戸田橋 河岸橋 蕨宿碑 蕨宿江戸方木戸跡
続いて荒川に架かる戸田橋を渡る。
江戸時代には、荒川は戸田川と呼ばれ、橋は架けられず、船で川を越えていた。安永元年(1772)には戸田河岸場が置かれたが、明治8年(1875)に戸田橋が架けられると戸田の渡しは廃止された。
戸田橋を渡ると埼玉県に入る。
戸田橋の渡詰めを右折して旧道に出るが、すぐ先で菖蒲川に突き当たり、その先の旧道は消滅しているので、旧道に近い道筋を進んでいくこととする。
まずは菖蒲川を渡るため、先に見える河岸橋を渡って行く。
河岸橋を渡って住宅街を抜け、本町交差点付近で国道17号線(中山道)に復帰して先に進んでいくと、蕨警察署入口を過ぎたシェル石油の前の分岐に中山道蕨宿の石柱が建っている。
蕨宿は十町(約1㎞)ほどで、道幅は6間(約11m)と広く、道の両側に街並みを形成していた。宿場の規模としては、江戸近郊において浦和宿や大宮宿を凌いで最大であった。
蕨宿の江戸側の入口にあたるところに木戸をかたどったモニュメントが建っている。
本日は、ここまでとし戸田駅に出て帰ることにした。

平成26年1月31日(金)☀  戸田(蕨宿)~上尾   21.5㎞
天気が良くて終日暖かいとの情報があったので、お休みを頂いて半年ぶりに中山道を再開した。戸田駅から真横に北上するように民家を抜けて蕨宿江戸方木戸跡に出て旧道を歩き始めた。

歴史民俗資料館 蕨本陣跡 道標 地蔵の小径
蕨宿のほぼ中央左側に歴史民俗資料館が建っている。
中山道蕨宿の昔を伝える多くの資料が所蔵されており、当時の宿場風景や、旅籠・商家・本陣上段の間などを再現した展示や街並みを復元したジオラマがある。
入館料は無料である。
蕨宿は江戸時代に中山道第二の宿駅として栄えた。
慶長11年(1606)蕨城主渋川公の将佐渡守岡田正信の子息正吉が初めて蕨宿本陣問屋名主の三役を兼ねたと伝えられている。本陣絵図面等によれば公家大名などが休泊し、文久元年(1861)皇女和宮が御降嫁の折りに御休息の場となり、明治元年(1868)・同3年には明治天皇が大宮氷川神社御親拝の際の御小休所となった。
道標の正面には中山道武州蕨宿、側面には板橋宿二里十町と刻まれている。
道標の後ろの看板は、中山道蕨宿まちづくり憲章である。
近江屋呉服店を過ぎて右側に手作り煎餅の萬壽屋さんがあるが、その角に地蔵の小径の石柱が建っている。
この道を入って行くと突き当りに金亀山三學院がある。

三學院 蕨宿上方木戸跡 春日神社 一六橋
三學院は、真言宗智山派寺院で金亀山極楽寺という。創建年代は不詳ながら、中世の創建と考えられ、賢廣(慶長年間寂)が新義真言宗として開山、天正19年には寺領20石の御朱印状を拝領、近隣に数多くの末寺を擁していた中本寺格の寺院であったという。
境内には、馬頭観音塔、元禄14年(1701)の常夜燈、地蔵石仏、仏足石、鐘楼、三重塔などがある。
街道に戻って進むと、国道17号に突き当たるところに木戸をかたどったモニュメントが建っている。ここは蕨宿の上方木戸跡(京口)である。左手には中山道ふれあい広場があり、半鐘の櫓のモニュメントと壁画が描かれている。 木戸跡で国道17号線を横切って先に進み、蕨錦町郵便局前の十字路を右に入ると春日公園内に春日神社がある。
春日神社の 「木造三十番神立像」 は、平成21年2月に蕨市指定文化財に指定された。
街道に戻ると錦町五丁目交差点の先右側に水路があり、脇に一六橋の標柱が建っている。
説明板には、「この橋は、見沼用水の分流、通称一六用水に架かっており、そこから一六橋と名付けられた。一六という名称は、南北朝時代~戦国時代に、この辺りで一と六の付く日に市が開かれたことによると伝えられている。」 と記されている。

境橋 辻の一里塚跡 辻熊野神社 焼米坂
一六橋の先の用水には、境橋がある。
説明書きには、「この橋は、蕨宿と辻村の境を流れる見沼用水の分流の笹目用水に架かっており、そこから境橋と名付けられた。江戸時代中ごろまでは木製であったが、寛政9年(1797)に蕨宿の池上氏が中心となり、石製の橋を完成させた。」 と記されている。
境橋のやや先で東京外環自動車道にぶつかる手前の角地に辻の一里塚碑が建っている。日本橋から数えて5番目の一里塚で、現在は碑が残るのみである。
隣には、水難除けの弁財天が祀られている。当時、この辻地区は湿地が多く、村人達は大変難儀したため、弁財天を安置して地区の守り神とした。
東京外環自動車道を越えて300m程進むと、左手に辻熊野神社がある。
石鳥居をくぐると狛犬、常夜燈があり、奥に拝殿、本殿がある。
この神社は、「おくまさま」と尊称され、昔から辻の鎮守さまとして地域の人々から敬われ、親しまれてきた。
六辻交差点で国道17号線を越えて、ツルヤ交通株式会社の前を斜め左に入って行くと暫くして上り坂になる。
江戸時代、名物やき米の看板を掲げ、中山道を通る旅人に炒った米を売る茶店が数件あり、ここから焼米坂の名が定着したという。

調神社 玉蔵院 二七の市場通り 慈恵稲荷神社
焼米坂から1㎞ほど先右側に調神社がある。社名の 「調」 は 「貢(みつぎ)」 に同じで、調物(= 貢物)を納めるための倉が古代建てられたことに由来する。
また、読みは斎宮 (いつきのみや) に由来するという説もある。その音から「ツキ」に恵まれる神社として信仰される。また 「ツキ」 を 「月」 にかけたことによる月待信仰が古来よりあり、狛犬ならぬコマウサギがいる神社として有名である。
500m程先の浦和駅西口交差点を越えて間もなく、明治安田生命の先の左手筋を入っていくと、突当りに玉蔵院がある。
玉蔵院は、真言宗豊山派の古刹で、その創建は平安時代といわれる。古くは醍醐三宝院の直末であった。徳川家康からは寺領十石が寄進され、江戸時代には、住職が豊山長谷寺から派遣されるという格式の高い寺であった。
境内には、地蔵堂が建っている。
毎月二と七の日に市が開かれ、農産物や各種生活必需品が取引された。
これにちなんで、昭和55年、当時を偲んでこの通りに市場通りの愛称がつけられた。
歩道には、野菜を商う婦人像がある。
市場通りの先に慈恵稲荷神社という小さな稲荷の社がある。
鳥居手間には、慈恵稲荷神社と記された社標 と史跡指定の標柱あり、鳥居をくぐると江戸時代、浦和宿で市が開かれていた証の、市神様(いちがみさま)を祀る石祠が柵で囲まれて保存されている。柵の中の市神様の脇には、「御免毎月二七市場定杭」 と刻まれた天正18年(1590)の石柱がある。

成就院 笹岡稲荷神社 廓信寺 庚申塔
慈恵稲荷神社の直ぐ近くに成就院がある。
小さな寺院で、昭和48年に完成した薬師堂が正面にあり、その左側に延命地蔵尊、観音菩薩像、弘法大師廟が祀られている。
さらに旧道を進むと国道463号線の高架下をくぐり、その先で東北本線跨橋の浦和橋を渡ると、渡り詰め右手に笹岡稲荷神社がある。
この近くに日本橋から6番目の一里塚があったが、遺構や説明版などは見当たらない。
廓信寺(かくしんじ)は、浦和郷一万石の代官中村吉照(元和元年-1622-没)が旧主高力清永(岩槻城主)追福のために建立した浄土宗の寺である。
参道口にはサツマイモの女王紅赤の発祥地の説明があり、参道には六地蔵尊、境内には鐘楼、秩父宮妃お手植えの紅梅などがある。
先に進むと大原陸橋交差点の左側に覆屋に安置された庚申塔がある。
正徳4年(1714)の針ヶ谷の庚申塔で、一面六臂の青面金剛像、邪鬼、三猿が浮き彫りにされている。

さいたま新都心 赤い祠 お女郎地蔵と火の玉不動 氷川神社参道
与野駅から先は直線道路でさいたま新都心の高層ビルが林立している。 上木崎交差点を過ぎると街道の両側はケヤキ並木が続く。右側のケヤキ並木が途切れた歩道上に赤い祠がある。
祠の中には、お女郎地蔵と火の玉不動が安置されている。
美しい旅籠の女郎が材木屋の若旦那と恋仲になったが、ある悪漢が割って入り旅籠に火をつけると脅したので、進退窮まった女郎はついに高台橋から身投げをしてしまった、これを哀れに思った町人が地蔵を建立した。(右側の石仏)
高台橋のあたりを毎夜火の玉が飛ぶので、ある男が火の玉に斬りつけてみると不動明王と名乗る男が、「剣を斬り落とされた」 と言い残して姿を消した。(左側の石仏)
さいたま新都心の駅を過ぎると右側に氷川神社の参道が現れる。
参道口には、武蔵国一宮と刻まれた石柱と安政3年(1856)の常夜燈が建っている。古くは参道が中山道であったが、氷川神社の神域を通行するのは不敬であるとして、現在の道を開設したという。
参道は2㎞ほどあるので、先に進んでから立ち寄ることにする。

塩地蔵尊と子育地蔵尊 臼倉本陣跡 東光寺 多子稲荷神社
吉敷町交差点を越えて右手にポストのある角を折れると塩地蔵尊と子育地蔵尊がある。写真手前が塩地蔵尊で病に倒れた父親を二人の娘が塩断ちをしてお地蔵さまに祈ったところ父の病が全快したという。
街道脇には、塩地蔵尊と子育地蔵尊のモニュメントが建っている。
大宮駅前の中央通りを渡って、左側すずらん通り角のキムラヤが当初本陣を勤めたといわれる臼倉本陣跡である。
本陣跡として確かな資料は残っていないが、消えかけて判読が難しい立て看板があり、当時からの井戸水であるつくばいの流水として説明されている。
大栄橋交差点の先、右側に東光寺がある。東光寺は、曹洞宗約15000寺のうち十指に入る北関東の名刹であり、もとは大宮黒塚(氷川神社の東側、現・産業道路脇)にあって、天台宗に属していた。 徳川家光の頃、中山道の整備にともなって現在地に移されている。 JA共済埼玉ビルの先右手の路地を入って行くと突当りに多子稲荷神社がある。
当社は、旧土手宿村の鎮守として祀られてきた神社である。
勧請の時期は定かではないが、京都の伏見稲荷大社の分霊を祀ったものと伝えられ、現在の本殿は天保四年(1833)の建立である。

氷川神社 四恩寺 猿田彦大神 天満宮
多子稲荷神社の先に氷川神社がある。さいたま新都心駅近くから始まる参道に出ると正面に三の鳥居が現れ、神池を渡り、楼門をくぐると、その奥に本殿が鎮座している。拝殿の前には大きな舞殿が建っている。氷川神社は、2000年以上の歴史をもつといわれ、大いなる宮居として大宮の地名の由来にもなった日本でも指折りの古社で、武蔵一宮として関東一円の信仰を集め、初詣には多くの参拝客で賑わっている。 先に進むと北大宮駅の近く(東側)に日蓮宗四恩寺がある。
安産・子宝のお寺といわれており、墓地の脇には、一面六臂の青面金剛の庚申塔が建っている。
四恩寺から東北本線のガードをくぐり直進し、東北・上越新幹線のガード手前のミズノスポーツの向かい側に東大成の庚申塔がある。
江戸時代前期の元禄10年(1697)に建てられ、正面に青面金剛像・二鶏・三猿が浮き彫りされている。
東北・上越新幹線のガードを越えて1.2㎞程進むと、大宮宮原郵便局の斜向かいのT字路角地に天満宮がある。ここは、菅原道真を祀る小さな祠が傍らに鎮座する石橋であったことから当時その名で呼ばれた 「天神橋」 があり、このあたりが加茂宮村の中心的集落であった。
ここには立場茶屋が置かれ、天神橋の立場(たてば)と呼ばれていた。天満宮の手前の道端に宝暦9年(1759)の銘がある「橋供養塔」が建っている。

庚申塔 加茂神社 センダンの木 南方神社
天満宮の先の天神橋バス停の前の民家の塀に張り付くように庚申塔が建っている。
元禄3年(1690)で青面金剛像・二鶏・三猿が浮き彫りにされている。
庚申塔から250m程先右手に加茂神社がある。祭神は、五穀豊穫と子孫繁栄の神を意味する別雷命(わけいかずちのみこと)である。この神社は、天正10年(1582)の文書で加茂宮と記載されている古社であり、山城の国、賀茂別雷(かもわけいかずち)神社から勧請したと伝えられる。
文政10年(1827)8月御遷宮本社再建立と刻まれた石灯篭もある。
加茂神社を過ぎて新大宮バイパスの下をくぐって直ぐさいたま市立三原小学校があるが、その敷地内に樹齢100年のセンダンの木が立っている。
5月~6月にかけて淡紫色の美しい香気のある五弁花をつけ、10月には果実が成熟し、黄褐色となり下垂する。
宮原町から吉野町に入って直ぐ右手に南方神社がある。南方神社は、旧吉野村の鎮守で諏訪社とも呼ばれたが、明治40年頃、近隣にあった雷電社、八雲社、稲荷社を合祀した。
社名 「南方」 は建御名方命にちなむものであるとともに、諏訪湖をあらわす 「水潟」 にゆかりがあるという。

創作漬物河村屋 不動尊の道標 愛宕神社 脇本陣井上家
先に進むと、つつじが丘公園交差点の先左手に河村屋が建っている。河村屋は、江戸文化文政期、大宮宿と上尾宿の間の中山道沿で創業した。地酒「養老」の小売りなどを営む側ら、その酒粕を利用して粕漬けのような漬物を創作したことに始まり、明治13年に河村屋として本格化した。
保存の知恵が凝縮されたその伝統的製法を伝承する、漬物の専門店である。
河村屋の直ぐ先左側の馬喰新田バス停のところに不動尊の道標がある。
寛政12年(1800)、「是より秋葉へ壱里十二町 ひご方へ壱里八丁 川越へ三里」 と刻まれている。
上尾陸橋交差点を越えると左側に愛宕神社がある。
参道脇には、享保7年(1722)の愛宕の庚申塔が建っている。青面金剛像・二鶏・三猿が浮き彫りにされている。
上尾駅にほど近い美術陶芸のカネコの先の駐車場奥の民家の塀に、井上五郎右衛門家が代々務めていた脇本陣の大きな屋根瓦の一部を残している。

氷川鍬神社 胡桃下稲荷神社 遍照院
上尾駅前丸広百貨店の脇に氷川鍬神社がある。常夜燈の奥に鳥居があり、朱塗りの本殿の御神体は小さな鍬が二本である。
境内には本殿のほかに学業の神様である菅原道真公や朱子を奉った二賢堂や聖徳太子堂、雲室上人生祠碑頌、浅間社などがある。
上尾駅前の商店街の一角に胡桃下(くるみした)稲荷神社がある。
立札の説明書きには、「当神社の御本社常陸国(現在の茨城県)笠間に鎮座致します笠間稲荷神社を本社と致します商業農業等の繁栄を司る御神を御祀りする御本社の古来からの別名胡桃下稲荷(紋三郎稲荷)で御座います。」 とある。
上尾駅東口にある遍照院は、江戸時代には寺領20石の朱印地を与えられた大寺である。
市内には幕府から御朱印を与えられた寺院は多いが、20石は最高の石高である。同寺は真言宗智山派の寺院で日常山秀善寺と号するが、『新編武蔵風土記稿』によると、京都御室(おむろ)の仁和寺の末寺となっている。

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