この周辺は、かつて神田旅籠町と呼ばれていました。
 昌平橋の北側にあたるこの地は、中山道の第一の宿場である板橋宿、日光御成街道の宿場町である川口宿への街道筋として、旅籠が数多く立ち並んでいたため、「旅籠町」 と呼ばれるようになったと伝えられています。
 江戸幕府は、五街道の中でも、遠く京都に通じる東海道と中山道の整備に特に力を入れていました。また、日光御成街道は将軍が日光参拝の際、必ず通った街道で、現在の国道122号にほぼ相当します。こうした二つの重要な街道の拠点となる町が旅籠町だったのです。
 しかし、天和2年(1682)に江戸で大火事が起こります。浄瑠璃や歌舞伎でも有名な 「八百屋お七」 の大火です。もともとあった旅籠町はこの火災で類焼し、北側の加賀金沢藩邸跡地に替地を与えられました。そして元禄7年(1694)には、浅草御門の普請のため、馬喰町・柳原周辺の町が代地を与えられ移転しています。これを機に旅籠町にも一丁目と二丁目ができました。さらに、明治2年(1869)には、昌平橋と筋違橋の北側にあった幕府講武所付町屋敷が神田旅籠町三丁目と改称されました。

 昌平橋の架設は極めて古く、寛永年間(1624-44)と伝えられています。この橋は、一口橋(芋洗橋)、相生橋などと呼ばれてこともあります。一口橋の名は、この橋の南側を西に向かって坂を登ったところに一口稲荷神社(今の太田姫稲荷神社)があり、それにちなんで呼ばれていました。
 「御府内備考」 には、「筋違の西の方にて神田川に架す。元禄の江戸図には相生橋とあり
、聖堂御建立ののち、魯の昌平郷の名かたどり、かく名付給ひしなり。或人の日記に元禄4年2月2日、筋違橋より西の方の橋を、今より後昌平橋と唱ふべきよし仰下されけり、是までは相生橋、また芋洗橋など呼びしと云々」 と書かれています。すなわち、元禄4年(1691)将軍綱吉が湯島に聖堂を建設したとき、相生橋(芋洗橋)と呼ばれていたこの橋は、孔子誕生地の昌平郷にちなんで昌平橋と改名させられました。明治維新後に相生橋と改められましたが、明治6年(1873)に大洪水で落橋、同32年(1899)再架してまた昌平橋と復しました。
 現在のj橋は、昭和3年(1928)12月8日に架設されたものです。
 (千代田区教育委員会)

昌平橋

神田旅籠町説明

昌平橋の由来