浦和宿二・七市場跡説明

 浦和の市場は、戦国時代に開設されたものと考えられ、天正18年(1590)には豊臣秀吉の家臣である浅野長吉から喧嘩口論などを禁じた 「禁制」 が 「浦和市」 に対して出されています。浦和市は月6回開かれる六斎市と呼ばれるもので、毎月二と七の日に開かれたため(2日・7日・12日・17日・22日・27日)、「二・七市場」 と言われています。
 江戸時代、十返舎一九は 「代ものを積重ねしは商人のおもてうらわの宿の賑わい」 と詠み、浦和の市の賑わいを表現しています。
 また、川口芝の長徳寺住持である龍派禅珠は、ある年の暮れ、浦和の宿で萩、屠蘇(とそ)、麹(こうじ)、膠(にかわ)、末醤(味噌と醤油)、新暦などを購入しています。
 周辺では、蕨(一・六の市)、鳩ケ谷(三・八の市)、与野(四・九の市)、大宮(五・十の市)で市が設けられており、毎日どこかで市が開かれていたことになります。
 (浦和市教育委員会)、

市神様石祠

手前に「御免毎月二七市場定杭」碑

慈恵稲荷神社社標

慈恵稲荷神社