お店の方が建てたと思われる道標

距日本橋二里二十五町十三間

本陣跡碑脇に立つ説明板

 本陣は、一般に街道を通行する大名等の休泊施設ですが、江戸より二里半(約10㎞)の近距離にある板橋宿では、宿泊に用いられることは少なく、主に休憩所として利用されました。また、その際には、藩主と江戸の家臣との謁見、送迎の場としても機能していました。
 板橋宿本陣は、古くは飯田新左衛門家ら数家で務めていたようです。宝永元年(1704)、当家は飯田本家より別家していますが、その際、世襲名 「新左衛門」 と本陣・問屋役を引き継いでいます。また併せて、屋敷地359坪、田畑1.5町余(約16,000㎡)の広大な土地を譲り受け、当地に本陣を構えました。なお、当家3代目新左衛門珎儀(ちんぎ)の遺言状から、別家後の江戸時代中期頃に当家が宿内唯一の 「御本陣家」 に指定されたことが窺えます。
 本陣は 「中山道宿村大概帳」 によると建坪97坪、門構え玄関付の建物でした。また、本陣指図からは、間口・桁行ともに12間半(約22.5m)、貴人が座所とする上段の間や御次の間のほか、御膳所や18畳の玄関などを備えていたことが分かります。他宿に比べ小振りな本陣は、宿泊に供することが少ない板橋宿の性格を示しています。
 本陣の建物は明治23年(1890)に火災に遭い焼失しましたが、昭和39年(1964)、明治期に建てられた母屋の解体時、床板として転用されていた関札が見つかっています。この関札や本陣図などの古文書は、区有形文化財に登録され、板橋宿本陣の姿を今に伝えています。
 (板橋区教育委員会)