当所の愛宕神社は、その昔、現在の上尾運動公園北門の西方2,300m先の所に本殿があって、周辺一面は鬱蒼とした広い愛宕山で、その南側が甚兵衛山、北側に山王山で、日の詰神社の山林もあったと古老の言い伝えにあります。
 明治初年に神仏分離令の発布があり、その後、分離、廃合、合祀などが行われ、愛宕神社も他に合祀されることになりましたが、下町町民(当時の戸数50~60軒)がこれを拒み、旧原市新道、南角の所を借り受け、ここに一時お祀りしました。
 その後、明治42年7月20日に現在のこの所に再び神社をお遷しして、明治42年7月24日に大祭を行い、その日から下町を愛宕町と改名することになりました。
 昔、愛宕神社の本社が鎮座せられたのは、今から1,250数年前、和気清麿公が勅を奉じて王城の火災防火、開運勝利、諸病厄除等、鎮護祈願の神として、山城と丹波の国境旭ヶ峯の項上(今は京都市)にお祀りしたのが始まりであると言伝えられております。
 ご神体は勝軍地蔵菩薩様で、本殿に伊邪那美命、外20柱の神様をお祀りしてあります。現在全国に愛宕神社は800余分社があり、その内本県に30数社あります。これらの分社は、大方、大同元年(806)及び仁寿3年(853)頃全国にわたり、とりわけ関東・武蔵の国に非常に火災と悪病が流行した時に当地にも分社鎮座が行われたと考えられます。当社は古くから火防、諸病厄除、無病息災、開運等に御利益があると言われ参拝者が絶えません。

一面六臂の青面金剛の庚申塔

愛宕神社拝殿

愛宕神社新築記念碑

愛宕神社由緒