「二賢堂」 は、天明8年(1788)、学僧の雲室上人が上尾宿(現在の氷川鍬神社境内)に開いた郷学ともいえる 「聚正義塾」 の学舎の名称です。雲室が、当時親交のあった林大学頭信敬らと相談して、中国の南宋の大儒朱文公(朱子)と、わが国の学問の神様ともいわれる菅原道真の二人の賢人を祀る意味から、「二賢堂」 と名付けたものです。
 雲室は、信濃国飯山(長野県飯山市)出身の当時有名な学僧で、江戸の多くの文人たちとも交流がありました。雲室が上尾宿で開塾したのは、学友の石井永貞と、その弟子に当たる上尾宿の山崎武平治碩茂の強い勧めがあったためです。
 聚正義塾の学舎は、山崎碩茂ら上尾宿や近隣の村の人々の資金と労力によって建てられ、その意味では、私塾とは異なる郷学の性格を持っていました。雲室は、4年ほどで上尾を去りますが、その後山崎碩茂が引き継いでいます。塾は、文政9年(1826)に碩茂が亡くなった後も続けられたといわれています。
 現在も氷川鍬神社に残る、林大学頭信敬筆の 「二賢堂」 の扁額、そして境内の 「上尾郷二賢堂碑記」、「雲室上人生祠碑頌」 とあわせて3件が、上尾郷二賢堂跡を物語っています。
 (上尾市教育委員会)

聖徳太子像碑

上尾郷二賢堂跡

浅間大神