当社は、一般に 「多子稲荷神社」 として知られており、旧土手宿村の鎮守として祀られてきた社である。勧請の時期は定かではないが、京都の伏見稲荷大社の分霊を祀ったものと伝えられ、現在の本殿は天保4年(1833)の建立であることが現存する棟札からわかる。また、この棟札には 「奉正遷宮正一位多子稲荷大明神」 とあるところから、当時すでに正一位の神階を受けていたことがうかがえる。
 明治4年に村社となり、同27年に村の南方に当たる字下西耕地から字下東耕地に移転した。これが現在の社地であり、移転当時は社殿は西向で、参道は荷車が通れるほどの幅で中山道に抜けていた。ちなみに、この移転は、鉄道の施設に際し、旧社地がその用地にかかり、社殿に蒸気機関車の出す煤煙や火の粉が降り注ぐようになったため、やむなく行われたものである。その後、昭和28年に至って社殿を南向きに改め、当社は今日見られような姿になった。
 「風土記稿」 では、当社は 「村民の持」 とされており、祀職に関する記載はないが、棟札等の記録によれば、武蔵一宮氷川神社社家の西角井家が少なくとも天保年間(1830-44)以来、5代にわたって祭祀を行ってきたことが分かる。

稲荷神社拝殿

本殿

稲荷神社由緒