江戸に幕府を開いた徳川家康は、街道整備のため、慶長9年(1604)2月に諸国の街道に一里塚の設置を命じました。これにより、5間(約9m)四方、高さ一丈(約3m)の塚が江戸日本橋を基点として一里(4㎞弱)ごとに、道を挟んで二基ずつ築かれました。
 志村の一里塚は、本郷森川宿、板橋宿平尾宿に続く中山道の第3番目の一里塚として築かれたもので、天保元年(1830)の 「新編武蔵風土記稿」 では 「中山道往還の左右にあり」 と紹介されています。
 幕末以降、十分な管理が行き届かなくなり、さらに明治9年(1876)に廃毀を命じた法が下されるに及び多くの一里塚が消滅していきましたが、志村の一里塚は昭和8年から行われた新中山道の工事の際に、周囲に石積みがなされて土砂の流出を防ぐ工事が施されて保全され、現在に至っています。
 今日、現存する一里塚は全国的にも非常に稀なもので、都内では北区西ヶ原と志村の二ヶ所だけです。そのため交通史上の貴重な遺跡として、大正11年(1922)に国の史跡に指定され、昭和59年に板橋区の史跡に登録されました。
 (板橋区教育委員会)

志村一里塚説明

志村一里塚(南塚)

志村一里塚(北塚)