江戸時代には、この場所の道をはさんだ向かい側に旗本近藤登之助の抱屋敷がありました。その垣根の際には榎と槻(つき)の古木があり、そのうちの榎がいつの頃からか縁切榎と呼ばれるようになりました。そして、嫁入りの際には、縁が短くなることを恐れ、その下を通らなかったといいます。
 板橋宿中宿の名主であった飯田侃家の古文書によると、文久元年(1861)の和宮下向の際には、五十宮などの姫君下向の例にならい、榎を避けるための迂回路がつくられています。そのルートは、中山道が現在の環状7号線と交差する辺りから練馬通(富士見街道)、日曜寺門前、愛染通りを経て、板橋宿上宿へ至る約1㎞の道程でした。
 なお、この時に榎を菰(こも)で覆ったとする伝承は、その際に出された、不浄なものを筵(むしろ)で覆うことと命じた触書の内容が伝わったものと考えられます。
 男女の悪縁を切りたい時や断酒を願う際に、この榎の樹皮を削ぎ取り煎じ、ひそかに飲ませるとその願いが成就するとされ、霊験あらたかな神木として庶民の信仰を集めました。また、近代以降は難病との縁切りや良縁を結ぶという信仰も広がり、現在も板橋宿の名所として親しまれています。
 (板橋区教育委員会)

史跡縁切榎碑

縁切榎説明