神田鍛冶町三丁目の説明

 JR神田駅周辺には、「鍛冶」 という名を冠する町名が3つ存在します。そのうち、鍛冶町一丁目と鍛冶町二丁目は、江戸時代から 「鍛冶」 が付く町名でしたが、ここ神田鍛冶町三丁目は 「鍋町」 と呼ばれた町でした。
 この界隈が鍋町と呼ばれていた理由は、江戸幕府の御用鑄物師をつとめていた、椎名山城が屋敷を構えていたためと伝えられています。鑄物師とは、鍋や釜をつくる職人のことです。ほかに御腰物金具師や御印判師なども住んでいました。
 鍋町に住んでいたのは、このような御用職人ばかりではありません。文政7年(1824)の 「江戸買物独案内」 によれば、紅や白粉などの化粧品、傘、菓子、釘や打物などを扱う各種の問屋をはじめ、馬具や武具をつくる職人まで店を構えて住んでいたことがわかります。江戸時代、この界隈は鍋のような日用品から馬具や武器まで、多種多様な商品がそろう町でした。
 明治のはじめ、隣接するいくつかの横町を含めて鍋町は広がりました。
 明治6年(1873)、一部が黒門町に編入され、さらに昭和8年(1933)、鍋町は鍛冶町三丁目と改称し、一部が鍛冶町二丁目になりました。昭和22年(1947)には町名に 「神田」 が付き、昭和41年(1966)に実施された住居表示で一部は内神田三丁目に編入されました。これを受けて、地域の人々は町会の名称を 「神田鍛冶三会」 と改め、今日に至っているのです。

 「御府内備考」 に 「御成道、筋違外広小路の東より上野広小路に至るの道をいう」 とあります。
 筋違は筋違御門のあった所で、現在の昌平橋の下流50mの所あたりに見附橋が架かっていました。御成道の名は、将軍が上野の寛永寺に墓参のため、江戸城から神田橋(神田御門)を渡り、この道を通って行ったからです。見附内の広場は、八つ小路といって江戸で最も賑やかな場所で、明治時代まで続きました。八つ小路といわれたのは、筋違、昌平橋、駿河台、小川町、連雀町、日本橋通り、古柳町(須田町)、柳原の各口に通じていたからだといわれます。また御成道の道筋には武家屋敷が多くありました。
 江戸時代筋違の橋の北詰めに高砂屋という料理屋があり、庭の松が評判であったといいます。明治時代には御成道の京屋の大時計は人の眼を引いたようです。また太々餅で売り出した有名な店もありました。

ガードの壁に張られた御成道の説明板

万世橋の昔の様子