1.中山道と蕨宿
 江戸時代、埼玉県内には五街道のうち、中山道と日光道中が通り、日光御成道や多くの脇街道が通っていました。
 中山道は、江戸日本橋から近江国(滋賀県)守山宿までの67宿の街道で近江国草津宿で東海道と合流し、京都三条大橋に向かい、江戸と京都・大坂を結ぶ幹線道路として創設されました。
 蕨宿は、この中山道にあり、江戸日本橋から数えると2つ目の宿場で、67宿のうちでも5指に入る大宿場として栄え、埼玉県では最初の宿場でした。

2.蕨宿の成り立ちと形態
 蕨宿の成立の時期には諸説がありますが、慶長17年(1612)成立という説が有力と考えられています。
 天保14年(1843)の蕨宿は、総家数430軒、人口は2,223人でした。大名・公家など身分が高い人々の宿泊施設である本陣が2軒、脇本陣が1軒、一般の旅人の宿泊のための旅籠が23軒ありました。また、旅人と荷物を輸送する事務を行う問屋場と高札を掲げる高札場が一ヶ所ずつありました。
 蕨宿は宿役人が置かれ、交代で問屋場に勤務して、乗り継ぎをする馬や人夫の用意、物資の運輸、周辺の村々からの人馬の動員などを行っていました。

3.蕨宿のまちなみと人々の暮し
 蕨宿は中心部のまちなみが南北10町(約1,090m)で、宿の周囲を用水堀で囲み、外部の攻撃から守れるようにしてあるのが特徴でした。この掘は防火用水の役割も果たしていました。
 蕨宿には青物、穀物、菓子、油、荒物、材木など様々なものを商う店があり、他にも豆腐屋、煙草屋、髪結いなど色々な職業の人々が暮らしていました。毎年7月11日と12月26日には市がたち、賑わいをみせました。

半鐘櫓のモニュメント

大名行列の壁画

蕨宿の説明板