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元佐倉道   (両国橋~小岩市川の渡し


令和6年(2024)1月6日(土)~7日(日)   ☀    両国橋~小岩市川の渡し   13㎞
元佐倉道は、隅田川に架かる両国橋から堅川の北側を東に直線的に進み、旧中川の 「坂井の渡し」 を渡り、成田街道(佐倉道)と合流する 「小岩市川の渡し」 までのほぼ一直線の道である。一般的には 「元佐倉道」 よ呼ばれているが、明治8年(1875)には千葉街道と改称され、道路脇には 「千葉街道」 の標柱が建っている。八蔵橋以東は道幅が拡張され、現在の荒川(荒川放水路)は、明治44年(1911)から昭和5年(1930)にかけて開削されているため、この部分は消滅している。

両国橋 説明板3枚 説明板3枚 与兵衛すし跡説明板
両国橋は江戸時代に架けられた橋で、当初は 「大橋」 と云われていたが、川の西側が武蔵国、東側が下総国であったことから、俗に両国橋と呼ばれ、元禄6年(1693)に正式名称になったという。両国橋の東側渡詰めは児童遊園となっており、、明治三十七八年戦役の表忠碑、両国橋碑、大高源吾句碑などが建っている。 児童遊園の南側には3枚の説明板が建てられている。これらは、「藤代町跡」 「片葉の葦」 「駒留橋跡」 の説明板である。 更に35m程南側の駐車場の前に3枚の説明板が建っている。これらは 「旧両国橋・広小路跡」 「赤穂浪士休息の地」 「石尊垢離場跡」 の説明板である。 「赤穂浪士休息の地」 などの説明板から50m程先の左手筋を入ると、左手のビル前に 「与兵衛すし跡」 説明板が建っており、その向かいのビル前には鬼平情景・料亭 「井筒」 の説明板が建っている。

東に延びる元佐倉道 一之橋 塩原橋 塩原太助炭屋跡
旧道に戻って120m程先で突き当たると、ここから左に折れて東に向かう一直線の元佐倉道が旧中川まで5㎞程続いている。 直線の道に入って直ぐ右手に、竪川(たてかわ)に架かる一之橋がある。竪川は、万治2年(1659)に起工された人工の川で、江戸城から見て縦(東西)に流れるので 「竪川」 と名付けられた。竪川の上は首都高速7号小松川線の高架で覆われ、東側半分は暗渠化されて公園となっている。 旧道に戻って170m程進むと右手に二番目の塩原橋が架かっている。塩原橋は関東大震災の復興事業の一つとして、昭和3年(1928)11月に架けられ、当時は木製であったが、昭和29年(1954)3月に現在の鋼桁橋に架け替えられたという。塩原橋から旧道に戻り、そのまま北に50m行った馬車通りの右手に、赤穂浪士の経過を記録した前原伊助宅跡がある。 街道に戻って80m程進んだ左手筋角に塩原橋の名前の由来となった塩原太助炭屋跡がある。太助は、文化年間(1804-17)の商人で、当時の本所相生町二丁目に炭屋を開き、木炭の粉を丸くこね固めた炭団が当たり、成功を収めたという。更にここから80m程先の左手筋を入ると、馬車通りの前に囲碁の名門である本因坊屋敷跡がある。

千歳橋 中田屋茶舗 ニ之橋 西竪川橋
旧道に戻って50m程進むと右手に千歳橋が架かっている。千歳橋から70m程先の左手筋を入っていくと馬車通りの前に鬼平情景・煙草屋・壺屋の説明板が建っている。 旧道に戻って進むと二之橋の北詰め角に中田屋茶舗がある。中田屋茶舗は、安政元年(1854)の創業で、当時は堅川沿いの本所相生町に店を構えていたが、東京大空襲で店を焼失し、間もなく現在地に再建した。店の前の植栽のところには、鬼平情景・軍鶏なべ屋 「五鉄」 の説明板が建っている。 中田屋茶舗の南側に、ニ之橋が架かっている。竪川が開削されたときに五つの橋が架けられたが、ニ之橋は隅田川からニツ目の橋で、長さは10間、幅は3間ほどあった。ニ之橋の北詰めには、俳人小林一茶の居住地の説明板が建っている。 ニ之橋の北詰めから220m程進むと右手の竪川に西竪川橋が架かっている。橋の北詰めは緑児童遊園というポケットパークがあり噴水施設が設置されているが、この時期は水が流れていない。

竪川橋・新竪川橋 三之橋 菊花橋 旧道消滅
緑児童遊園からあまり旧道の面影のない道を110m程進むと右手に竪川橋が架かっており、更に110m程進むと新竪川橋が架かっている。 新竪川橋北詰めから230m程進むと右手に三之橋が架かっている。三之橋は都道319号が通っており、江戸時代に架けられた隅田川から三ツ目の橋であるが、現在の橋は昭和49年(1974)に架け替えられたものである。橋の南詰には、元徳稲荷神社がある。当社は江戸時代に河村徳右衛門が三河岡崎(愛知県)に住んでいた頃に伏見稲荷神社から神璽を遷して祀ったのが始まりという。 三之橋北詰めから200m程進んだ右手に昭和25年(1950)竣功の菊花橋(きくはなばし)が架かっている。菊花橋の北側の馬車通りの先に鬼平情景・長谷川平蔵の旧邸説明板が建っている。 菊花橋の北詰めから50m程先で旧道が大横川親水公園のため消滅している。ここは左に折れて馬車通りからこの先の旧道へ迂回していく。

時の鐘 新辻橋 牡丹橋 田螺稲荷神社
馬車通りに出ると大横川親水公園の前に 「時の鐘」 のモニュメントがある。時の鐘のモニュメント台座に撞木橋(しゅもくはし)の由来プレートが貼られ、親水公園の脇には時の鐘跡の説明板が建っている。 時の鐘から迂回して旧道に復帰し、70m程先に進むと右手に新辻橋が架かっている。この橋は令和6年中には撤去される予定で、ここから上流の竪川は暗渠化されて公園などが整備されている。 新辻橋の北詰めから270m程先に進むと牡丹橋通りと交差する。かつて竪川に牡丹橋が架かっていたが、現在は暗渠化され橋の面影は道路脇に保存された牡丹橋親橋に残されている。傍らには牡丹橋親柱モニュメントの説明碑が建っている。 牡丹橋通りを横切って80m程進むと、ビルの間に田螺(たにし)稲荷神社がある。田螺稲荷神社の創建年代等は不詳であるが、墨田区の観光案内によると、「江戸時代の伝説で大火の際に神社の脇の池から田螺が這い出し、社殿に張り付いて社殿を守った」 と伝えられ、火防の守り神と言われている。

四之橋 松本橋 旧道消滅 旧千葉街道標柱
田螺稲荷神社から170m程先で都道465号(通称「四ツ目通り」)と交差する。竪川には四之橋が架かっていたが暗渠化されて道路となり、橋の面影は全くない。また、ここは首都高速への出入口があり、竪川を渡るには地下通路をくぐることとなる。 四之橋の北詰めから右手の竪川第一公園に沿って300m程進むと、横十間川の手前右手に松本橋が架かっている。この橋は昭和4年(1929)の架けられたもので、鋼部分がモニュメントのように残されている。この橋の上流は横十間川が横切っている。 松本橋の北詰めの先は旧道が消滅している。かつては、この先に万治2年(1659)に架設された旅所橋の前身があり横十間川を渡っていた。ここでは左に折れて、馬車通りを通す昭和4年(1929)に創架された旅所橋を渡って迂回していく。 旅所橋を渡って旧道に復帰すると右手に旧千葉街道標柱が建っている。元佐倉道は、明治8年(1875)に千葉街道と改称されたことから、ここ亀戸一丁目から先には旧千葉街道標柱がたくさん見受けられる。

竪川橋梁 五之橋 豊川稲荷神社 竪川専用橋跡
旧道に入って250m程進むと竪川橋梁が旧道の上に架かっている。右手を流れる竪川は完全に埋め立られているが、この竪川橋梁は、旧国鉄総武線貨物支線として昭和4年(1929)に架設された。 竪川橋梁から270m程先で都道306号(明治通り)に突き当たると右手に五之橋がある。橋の下は竪川河川敷公園として整備され、自転車や小川が配された親水公園となっている。また、ここは三代目歌川豊国の生地ということで、浮世絵や歌川豊国の案内板、五之橋説明碑、旧千葉街道碑などが建っている。 五之橋北詰めから100m程先の左手筋角に豊川稲荷神社ある。豊川稲荷神社の創建年代等は不詳であるが、規模が小さいので屋敷神社であったようである。 更に100m程先に竪川専用橋跡がある。ここは、かつて路面電車が走るための 「竪川専用橋」 が架かっていたところである。平成23年に橋は撤去されたが、歩道には軌道敷レールが埋め込まれ、傍らに車輪のオブジェのほか、「竪川専用橋と竪川人道橋の歴史」 の説明板が建っている。

自性院 昭和橋 亀戸平岩公園 都道476号
竪川専用橋跡の先で竪川河川敷公園のフットサル場を右に見て進むと、その直ぐ先左手に天台宗の顕松山自性院安住寺がある。自性院は随円法印が開基で、当初は本所中之郷成就寺内にあったが、寛文2年(1662)に現在地に移転したという。中興開山の誠阿法印は三代目市村羽左衛門の甥で四代目を継いで自性院で出家したことから役者寺と呼ばれたという。境内には永享7年(1435)の宝篋印塔があり、江東区重要文化財に指定されている。 自性院から90m程先の右手に昭和橋が架かっているが、両側の竪川河川敷公園とほぼ一体化しており、橋という感覚は薄らいでいる。 昭和橋の北詰めから40m程先の左手に亀戸平岩公園があり、園内には稲荷神社とこの地を江東区に寄贈した動物学者平岩米吉氏の碑が建っている。 亀戸平岩公園から180m程先で都道476号(丸八通り)の高架下(竪川大橋)をくぐっていく。丸八通りは、明治通りと並行した延長5㎞程の南北方向の道で、ここから1㎞程南側を流れる小名木川に架かる橋の近くにあった丸八線香店が名前の由来だという。ちなみに小名木川に架かる橋は丸八橋である。

旧千葉街道標柱・中之橋 新六の橋 浅間神社 元佐倉道跡碑
都道476号の高架下にも旧千葉街道標柱が建っていたが、そこから270m程先の交差点右角にも旧千葉街道標柱が建っている。この交差点の竪川は完全に埋め立てられ、中之橋の面影は全くない。竪川の上下流は遊歩道として整備されている。 中之橋の先に旧千葉街道標柱が3箇所に建っており、中之橋北詰めから550m程先の都道477号に竪川に架かる新六の橋がある。ここは最早平坦な道で、ここに橋があったとは感じられない。 新六の橋の北側80m程のところに亀戸の浅間神社がある。浅間神社は、大永7年(1527)に創建され、木花咲耶比売命が祀られている。境内には景行天皇が笄塚を立てたといわれる場所に富士塚があり、塚前には富士せんげん道道標が建っている。境内社には稲荷神社、下浅間神社があり、南東入口には庚申塔・馬頭観音・地蔵菩薩などの石造物がある。 街道に戻って150m程進むと歩道脇に元佐倉道跡碑が建っている。正面に 「竪川六ツ目元佐倉道跡」、左面に 「右へ浅間神社・水天宮・常光寺六阿弥陀、香取神社・天神社・あさくさニ至ル」、右面に「右へ是ノ先 竪川六之橋跡・竪川ヲ渡り中川船番所ニ至ル、逆井乃渡ヲ西小松川村ニ渡リ小岩市ニ至ル」 と刻まれている。

逆井の渡し跡 逆井橋 坂井の渡し跡 小松川神社
元佐倉道跡碑の直ぐ先右手に竪川に架かっていた最後の橋である六之橋があったが、全くその面影は無く、そのまま先に進むと逆井橋の手前に逆井の渡し跡がある。ここには逆井の渡し跡碑と逆井の渡し跡説明板が設置されている。」 逆井橋は旧中川に架かる橋で、逆井の渡しが廃止された明治12年(1879)に架橋された。明治末期までは通行料金を取っていたが、その後、何度か架け替えられ、現在の橋は平成13年(2001)に架け替えられたものである。 逆井橋の渡詰め南側に坂井の渡し跡がある。ここは松の木が植えられ、植栽の前に坂井の渡し跡説明板が設置されている。 坂井の渡し跡から南に進んで最初の左手筋を行くのが元佐倉道であるが、逆井橋の先を80m程首都高速7号の下を進むと左手段上に小松川神社がある。小松川神社は、大正元年の荒川開削により西小松川と分離し、同3年には小松川町となったため、元の氏神であった新小岩香取神社と西小松川天祖神社の分霊を祀って創建したという。境内には稲荷神社のほか、大聖歓喜天碑、庚申塔、六地蔵尊などの石造物と坂井の渡し跡説明がある。

元佐倉道標柱 旧道消滅 新小松川大橋 旧道復帰
旧道に戻って逆井の渡し跡から南に70m程先に進んだ左手筋角に元佐倉道標柱が建っており、当時の道筋とその説明が記されている。 元佐倉道標柱から450m程先で江戸川区立小松川第二中学校に突き当り、旧道は消滅している。その先も明治44年(1911)から昭和5年(1930)にかけて開削された荒川によって消滅している。突き当りの手前右手の小松川ゆきやなぎ公園の前に元佐倉道(旧千葉街道)の説明板が建っている。 江戸川区立小松川第二中学校を左から回り込んで荒川の土手に出て200m程上流で新小松川大橋を渡って迂回していく。新小松川大橋は、昭和43年(1968)に上り線として従来の小松川橋の下流側に並行して架けられた橋である。 新小松川大橋の渡詰めから荒川の上流200m付近で旧佐倉道に復帰する。ここから先は旧成田街道(佐倉道)に合流するまで一直線の道である。

光福寺 五分一橋跡 八蔵橋 香取神社
旧道に復帰して200m程先の右手筋を入っていくと、左手に新義真言宗の長松山延命院光福寺がある。光福寺は、天文元年(1532)に海成坊(かいせいぼう)が開山し、13世宥昶(ゆうちょう)法印が中興である。通称 「五分一不動尊」 または 「いちょう寺」 と呼ばれている。境内には 「五分一不動」 「衣替観音」 を祀る不動堂のほか、地蔵菩薩半跏像、庚申塔などの石造物がある。 旧道に戻ると140m程先の交差点左手に五分市橋跡がある。かつて、ここには旧道を横切っていた川に五分一橋が架かっており、その面影を残す五一橋の親柱と説明板が建っている。 五分一橋跡から430m程先に八蔵橋がある。この橋も親柱が無いと橋とは判らないが、橋の下は小松川境川親水公園の小川が流れている。八蔵橋は、江戸時代に小松川村に入ってくる悪党などを村に入れないようにする役目をおった者の名前が由来だという。橋の北側に元佐倉道の説明板が建っている。 八蔵橋の先の八蔵橋交差点の左角に香取神社がある。香取神社は、經津主命(ふつぬしのみこと)を祀り、元和3年(1617)の勧請といわれ、東小松川村の鎮守として祀られていたという。境内には、境内社の日枝神社、山王大権現のほか、昭和32年の葛西囃子之碑などがある。

元佐倉道説明板 庚申塔 小松川境川親水公園 北野神社
香取神社前から300m程先の左手に江戸川区総合文化センターがあり、その入口付近のバス停前に元佐倉道(旧千葉街道)の説明板が建っている。内容は、八蔵橋にあったものと全く同じである。 元佐倉道説明板から150m程先の右手筋角にブロック造りの覆屋に安置された一面六臂の青面金剛の庚申塔がある。これは道標を兼ねたもので、説明標柱によると 「文化5年(1808)12月造立の東小松川中道の庚申塔河原道石造道標」 で江戸川区登録有形文化財に指定されている。 庚申塔から500m程先に鹿骨街道が横切る変則交差点(6差路?7差路?)があるが、その手前左手に小松川境川親水公園の東口がある。 変則交差点にある小岩警察署菅原橋交番を左に折れると、直ぐ右手に本一色北野神社がある。北野神社は、安永3年(1706)に慈眼寺の霊伝法印が創建したといわれている。境内には、出羽三山講中が建てた道標が移設されている。

地蔵堂 元佐倉道説明 環七通り 小岩大橋
旧道に戻るとほぼ斜向かいに地蔵堂があり、可愛らしい地蔵菩薩立像が祀られている。 地蔵堂から280m程先の江戸川区総合体育館の前に元佐倉道説明板が建っている。説明内容はこれまでにあった説明板と同じであるが、地図が南北逆転しており一瞬判らなかった。 江戸川区総合体育館の直ぐ先で都道318号(環七通り)を渡っていく。交差点の上を通るのは都道318号(環七通り)の松本連続陸橋である。 環七通りを渡って200m程先で新中川に掛かる小岩大橋を渡っていく。新中川は、度重なる中川の氾濫を回避するため、中川の水を旧江戸川に流すために開削された放水路で昭和38年(1963)3月に完成した。従って、かつてはここを旧佐倉道が通り、その先の成田街道(佐倉道)へ繋がっていた。

二枚橋親柱 大鷲稲荷神社 元佐倉道説明 小岩の一里塚跡
小岩大橋の渡詰めから130m程先の鹿本通りが交差する二枚橋交差点の左手歩道上に二枚橋の親柱が保存されている。古地図を見るとここを南北に流れる川があり、ここに架かっていたのが二枚橋である。 二枚橋交差点からおよそ1㎞程先の左手に朱の御神燈が建つ大鷲稲荷神社がある。大鷲稲荷神社は、文久2年(1863)に創建されたといわれる。小さな神社で境内は狭いが、見事な松の木が植えられている。 大鷲稲荷神社から500m程先の江戸川区立小岩小学校の前に元佐倉道(旧千葉街道)説明板が建っている。説明内容は、これまで設置されていたものと同じ内容である。小学校の前の横断歩道橋からは一直線の元佐倉道がよく確認できる。 江戸川区立小岩小学校の先の交差点は一里塚交差点であり、かつての一里塚はこの交差点の辺りにあったという。一里塚説明板は、この先のJR総武線の高架の手前に設置されている。

旧道の面影 本蔵寺 宝林寺 成田街道(佐倉道)合流
JR総武線の高架下を抜けるとその先で都道60号(蔵前橋通り)と合流し、現千葉街道は右に折れて江戸川を渡っている。元佐倉道はこの交差点を直進していくが、この先は一気に旧道らしい面影をとどめている。 旧道に入ると直ぐ左手に日蓮宗の晴立山本蔵寺がある。本蔵寺は、元和8年(1622)浅草新寺町に大雄山本蔵寺として創建され、明治43年(1910)に当地にあった頂栄山晴立寺と合併してできたお寺である。本堂内には、日蓮大菩薩像とその弟子である日朗菩薩像・日像菩薩像があり、山門前には大きな南無妙法蓮華経題目塔が建っている。 本蔵寺の直ぐ先左手に真言宗豊山派の愛宕山地蔵院宝林寺がある。宝林寺は、もとは千葉県市川市国分の金明寺の末寺である。境内には小岩市川の渡しに建っていた天保10年(1839)の常夜燈が移設安置されている。また。山門の左手には六地蔵尊のほか、地蔵菩薩立像、三面八臂の馬頭観音などの石造物がある。 宝林寺の直ぐ先の三叉路で成田街道(佐倉道)に合流する。ここが元佐倉道の終点である。三叉路左角には、御番所町の慈恩寺道道標があり、三叉路の中央には御番所町跡説明板が建っている。

小岩市川の渡し跡
三叉路右に折れて江戸川の堤防を上ると正面に小岩市川の渡し跡がある。説明板には、小岩市川の渡し跡・小岩市川の関所跡の説明が記されている。