この辺りに、前原伊助宅がありました。
 伊助は、赤穂浪士四十七士の一人で、浅野家家臣前原自久の長男として生まれ、延宝4年(1676)に家督を継ぎます。金奉行として勤仕したため、商才に長けていました。
 浅野内匠頭の刃傷事件後は江戸急進派として単独で別行動を取りました。初めは日本橋に住んでいましたが、やがて吉良邸裏門近くの本所相生町二丁目に移り住み、「米屋五兵衛」 と称して店を開業し、吉良家の動向を探りました。その後、大石内蔵助と行動をともにしました。
 討ち入りの直前には、亡君の刃傷事件から討ち入りまでの経過を漢文体で克明に書き綴った 「赤城盟伝」 を著しています。
墨田区

 塩原橋は関東大震災の復興事業の一つとして、昭和3年11月に架けられました。当時は木製でしたが、昭和29年3月、現在の鋼桁橋に架け替えられたものです。
 橋名は江戸時代の末 「本所には過ぎたるものが二つあり、津軽大名炭屋塩原」 と謳われた塩原太助がこの辺りに住んでいたことから、それに因んで付けられたものです。
 太助は上州(群馬県)沼田から江戸に出て薪炭商人として成功した人ですが、その立志伝は明治の初め、南二葉町(亀沢三丁目)に住んでいた三遊亭円朝によって人情話に仕立てられ、その後浪花節や演劇にもなりました。歌舞伎の 「塩原多助一代記」 は明治25年に初演され、愛馬の別れで大変な評判をとったそうです。
 天明元年(1781)当時、本所相生町(両国三丁目)に住んでいた太助が、亀戸天神に寄進した燈籠は今も境内に残っています。
平成4年3月 墨田区

塩原橋の由来

忠臣蔵・前原伊助宅跡

塩原橋橋標(親柱)