ここに本因坊屋敷がありました。本因坊家は、囲碁の名門で、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の3人に仕えた日海(一世本因坊算砂)を開祖とする家系で名棋士を輩出してきました。「本因坊」 の名は、算砂が住職を務めた寂光寺の塔頭の一つに由来しています。
 もともとその拝領地は芝金杉にありましたが、幕府に接収されたため、その代地として元禄元年(1688)、この場所が屋敷となりました。江戸期を通じて、常に囲碁四家元(他に、安井家、井上家、林家)の筆頭の地位にあり、道策、丈和、秀和、秀策、秀栄などの棋士を生んでいます。特に江戸末期の秀策は、史上最強の棋士として 「棋聖」 と呼ばれました。
 現在は、実力制で争われる多くのタイトル戦のさきがけとして名が残っています。
墨田区

 ここに、塩原太助(1743-1816)の炭屋がありました。
 太助は、文化年間(1804-1817)の商人で、当時の本所相生町二丁目に炭屋を開きました。
 18歳で江戸に出、職を変えながら42歳で炭屋山口屋に奉公しました。独立後、木炭の粉を丸くこね固めた炭団が当たり、「本所に過ぎたるもの二つあり、津軽屋敷に炭屋塩原」 と謳われるほどの成功を収めました。名人と呼ばれた落語家三遊亭圓朝は、その人生を 「塩原多助一代記」 として作品化しました。
 故郷、上野国(現在の群馬県みなかみ町)にいた頃の愛馬との悲しい別れや江戸での苦労の末に成功を収めていく姿に共感が集まり、その後も芝居や講談、浪曲などの数多くの題材となりました。
墨田区

塩原太助炭屋跡説明

本因坊屋敷跡説明

塩原太助炭屋跡前の元佐倉道