三代目歌川豊国は江戸時代後期の浮世絵師、初代豊国の高弟ではじめは国貞と名乗り、のちに豊国を襲名する。本名を角田庄五郎と称し、天明6年(1786)に本所五ツ目(亀戸五・六丁目付近)で生まれる。五渡亭、一雄斎、香蝶楼など多くの画号があり、とくに五渡亭を一番長く愛用した。その名の由来は、本所五ツ目に居を構え、竪川にかかる五ツ目の渡し船の株を持っていたことに因んで、天明期を代表する狂歌師大田南畝(蜀山人)から贈られたという。のち亀戸町に転居し、生涯を亀戸周辺で過ごした。
 豊国は文化・文政期(1804-30)を代表する浮世絵師として、美人画・役者絵など多彩なジャンルで活躍した。中でも柳亭種彦の合本 「偽紫田舎源氏」 では、挿絵を担当し大人気を得る。この作品をきっかけに源氏物語の世界観を描く 「源氏絵」 のジャンルを確立し、当時の歌舞伎にも影響を与えた。
 その活動期間は長く、江戸時代の浮世絵師のなかでも最多の作品数をほこる。元治元年(1864)に79歳で死去。墓所は亀戸光明寺(亀戸3-42-1)にある。
江東区

 五之橋の下を流れる竪川は、万治2年(1659)本所築立奉公であった徳山五兵衛重政及び山崎四郎左衛門が、大横川、横十間川と共に新田開発を目的として開削した用水路であった。竪川の開削に合わせ西の方から、一之橋を始めとして五つの橋が架けられた。当時この付近は、畑地が多く人の往来も少なかった。
 御府内備考によれば、「御入用無益之場所」 として、貞享元年(1624)本橋は取り払われ船渡しとなったと言われている。元禄8年(1695)五百羅漢寺が建立されたため、この渡しを利用する者も多くなり、「羅漢の渡し」 や 「五ツ目の渡し」 と呼ばれ人々に親しまれてきた。
 その後、明治12年(1879)に木橋が架けられたが大正12年の大震災により落橋した。戦災にも耐えた木橋は老朽化により昭和50年再度架け替えられた。親柱は震災復興記念として現在も残されている。
 亀戸、大島地域の発展に大きな役割りを果たしたこの橋は、昭和63年東京都著名橋に指定された。
平成4年3月

竪川の 野菊の宿は 初芽すぎ ニの芽摘むべく 群れ生ひにけり

伊藤左千夫短歌

三代目歌川豊国の生地説明

五之橋橋標(親柱)

街灯が付いた五之橋親柱

竪川河川敷公園に架かる五之橋

 旧千葉街道は両国橋から竪川の北岸沿いに東へ通し千葉方面にいたり江戸時代から佐倉道と称し江戸と千葉方面を結ぶ重要な陸路であったが明治時代からの市区改正事業などにより現在の国鉄総武線に沿った新しい千葉街道が建設されるにいたった。
昭和33年10月1日 江東区第17号

旧千葉街道碑

五之橋説明碑

寛永通宝のモニュメント

三代目歌川豊国の浮世絵