元禄11年(1698)の一面六臂の青面金剛の庚申塔
宝暦2年(1752)の地蔵菩薩立像
安永8年(1779)の観音菩薩像
元禄14年(1701)の法華供養塔
如意輪観音
馬頭観音
ほか地蔵菩薩立像2基

 この道標は、浅間神社、亀戸天神社、常光寺(六阿弥陀)、浅草へ至る道しるべです。享和元年(1801)10月、良歓が願主となり、本所六ツ目の地蔵講中が建てました。堅川沿いの佐倉街道と浅間神社に至る道との分岐点に、正面を東に向けて建っていたと推測されます。当時の絵図に見られるように、浅間神社から北東方面に道なりに進むと水神社に行き当たり、左手に折れると亀戸天神社へ、右手に折れると常光寺に至ります。浅草へは、常光寺から北十間川沿いの道をたどったものと思われます。道標は角柱型で、頂部は若干盛り上がっています。正面の縁・両側面・背面はノミ切り仕上げで、一定の幅でノミ筋を残しています。正面中央は一段低く彫り、表面を砥石による磨き仕上げとして、銘を刻んでいます。道標は、浅間神社ほかへの江戸時代以来の古い参詣道を示すとともに、江東区域の名所を表示するものとしても貴重な石造物です。また、近代以降、道の改変が行われていることから、江戸時代以降の古道を確認するための手掛かりを与えてくれる地域の資料として重要なものです。
平成23年1月 江東区教育委員会

享和元年(1801)の道標

道標説明

 亀戸浅間神社は、社伝によれば大永7年(1527)に創建されました。祭神は木花咲耶比売命です。もともとこの辺りの地は高貝洲と呼ばれていました。これは日本武尊が東征した時に海が荒れ狂ったため、弟橘媛(たちばなひめ)が海に身を投じ、その際に身につけていた笄(こうがい)が亀戸浅間神社のあるあたりに流れ着いたことによるものです。のちに景行天皇(第12代と伝えられる)がその地に笄塚を建てたとされています。この笄塚の場所に富士塚が築かれ、江戸時代には多くの信仰を集めました(境内「亀戸の富士塚」文化財説明板を参照)。
 本殿は安政2年(1855)の江戸大地震、大正12年(1923)の関東大震災で被災しました。現在の本殿は昭和初年に建立されたもので、平成10年(1998)の大島・亀戸・小松川防災再開発事業にともなって、今の位置に移動しています。境内には亀戸の富士塚や享和元年(1801)在銘の富士せんげん・亀戸天神・六阿みだ・あさくさ道道標(いずれも区指定有形民俗文化財)など数多くの文化財が残されています。また、かつて神社境内のそばを通っていた城東電気軌道の線路も残され、関東最大の茅の輪を作る(茅の輪くぐり)神事が年2回行われなど、亀戸東部地域の歴史や民族を伝える鎮守として、人々の信仰をあつめています。

鳥居に掛かる浅間神社の扁額

手水舎

浅間神社鳥居

建立年号、建立者名もなく、江戸時代後期から明治時代の間に作製されたと推測されている

 大正8年(1919)までの浅間神社の修繕等が記録されている

庚申塔・地蔵尊・観音像などの石造物

修庭記碑

身禄歌碑

境内社の下浅間神社

境内社の稲荷神社

富士塚

富士塚由緒

 日本で最初に作られた歴史書である 「古事記」 には、日本武尊とその后である弟橘媛(おとたちばなひめ)の美しくも儚いお話が載せられています。今から約2000年も昔、父景行天皇の命を受け、日本武尊は東国を平定するべく船に乗って走水(現在の神奈川県横須賀市)あたりを通過する時、土地の神様が波を立たせ、通行の邪魔をしたのです。進退窮まった一行、その時弟橘媛が「私があなた様の身代わりとなって海に入りましょう。あなた様はお父様の命令を遂行して、無事に都にお戻りください。」 と自分の身を海に投げたのです。身を投じる際、次のような歌を詠みました。
    さねさし さがむのおのに もゆるひの ほなかにたちて とひしきみはも
 弟橘媛が、相模国(現在の神奈川県)で火に囲まれた時に、日本武尊が身の心配をしてくれたという内容で、死ぬ間際まで夫に対する愛を伝えるものでした。
 さて、弟橘媛が身を投げると、たちまち海が静まり、日本武尊は船を進めることが出来ました。また、身を投げた媛の身に付けていたものは、波に漂って今の東京湾周辺に流れ着きました。そのうち、髪に付けていた笄は、この亀戸の地にたどり着いたとされています。かつて亀戸浅間神社がある辺りは 「高貝洲」 と呼ばれており、その名残を伝えています。
 遥か古の夫婦愛、それを伝える痕跡はもはや何も残っていませんが、末永くその伝説を受け継いでいくためにこの碑を建立しました。
平成24年6月吉日

亀戸浅間神社由緒

関東最大の茅の輪

浅間神社拝殿