石尊とは、神奈川県伊勢原市にある大山のことです。山頂の阿夫利神社は、商売繁盛と勝負事に御利益があるので江戸中期、江戸っ子が講を組み、白衣に振り鈴、木太刀を背負った姿でお参りに出かけました。
 出発前に水垢離を取り、体を清めました。その垢離場が旧両国橋の南際にありました。川の底に石が敷いてあり、参詣に出かける者が胸の辺りまで水につかり 「さんげさんげ、六根罪障、おしめにはったい、金剛童子・・・」 などと唱えながら、屈伸を行い、そのたびにワラで作ったサシというものを流したのです。その賑わいは、真夏の海水浴場のようだったとされています。
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 元禄15年(1702)12月14日、赤穂浪士は本所ニツ目の吉良邸に討ち入り、主君である浅野内匠頭の仇討ちを成し遂げました。これが世に言う赤穂事件で、芝居などで 「忠臣蔵」 と呼ばれるようになりました。
 赤穂浪士が討ち入り後、泉岳寺への引き揚げ前に休息をした場所がここにあった広小路です。吉良家への応援に駆けつけて来るであろう上杉家の家臣たちを迎え撃つ心算であったとの説もあります。休息後、大名との無益な衝突を避けるため、登城路になる旧両国橋を渡らず、一之橋、永代橋を経由して、泉岳寺へと引き揚げました。
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赤穂浪士休息の地説明

石尊垢離場跡説明

 旧両国橋は現在の両国橋の下流約50mのこの辺りに架かっていました。完成は万治2年(1659)12月。明暦3年(1657)の大火が大災害となったため、幕府が防災上の理由から架け、武蔵と下総の国を結ぶ橋なので、両国橋と呼ばれました。
 橋の上は、四方が眺望できる絶景の場所で、近くは浅草の観音堂、遠くは常陸の筑波山まで見えたようです。橋が架かったことで交通の要衝となるとともに、橋の袂には火除け地としての広小路が設けられました。西側(日本橋側)は 「両国広小路」 といわれ、芝居小屋や寄席、腰掛茶屋が立ち並び、東側は 「向こう両国」 と呼ばれ、見世物小屋、食べ物屋の屋台が軒を連ねる繁華街となりました。
 寛保2年(1742)の調査では一日に2万人以上が往来したとされています。
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旧両国橋・広小路跡説明