江戸時代後期の俳人小林一茶は、宝暦13年(1763)5月、信濃国水内郡信濃町大字柏原宿(現長野県上水内郡信濃町大字柏原)で本百姓小林弥五兵衛の長男として生まれました。本名は小林信之、幼名は弥太郎といいます。
 3歳で母くにと死別し、8歳の時迎えた継母とは不和となり、一茶の生涯と作品に大きな影響を与えました。15歳の時に江戸へ奉公に出て、苦労多い生活の中で俳諧に親しみます。やがて葛飾派の溝口素丸や小林竹阿(ちくあ)に師事し俳諧を学び、各地を巡歴しながら多くの俳人と交流し俳諧への理解を深めていきました。
 一茶は文化元年(1804)10月、それまで住んでいた本所五ツ目大島(現江東区大島)から本所相生町五丁目(現緑一丁目一番の一部およびニ・三番)の借家に移ります。家財道具が運び込まれた日に一茶は、「寝始まる其夜を竹の時雨哉」 という句を詠んでおり、居宅の周辺には竹が植わっていたことがうかがわれます。一茶は5年ほどこの地を拠点に活動しましたが、文化5年(1808)12月に旅から帰ると、留守中に借家が他人に貸し出されてしまっていました。「行年を元の家なしと成りにけり」
 以後、弟子や後援者の家を転々とし、文化10年(1813)に故郷に戻りました。晩年は妻と三男一女の死、度重なる病、住居の類焼などに悩まされながらも句を詠み続け、文政10年(1827)65歳で亡くなるまでの作品数は約20,000句に及びました。
 主な著作に 「父の終焉日記」、「七番日記」、「おらが春」 などがあります。子供や小動物への慈愛に満ちた作品がよく知られていますが、自らの境遇、都市や農村の日常に生きる人々の姿、政治や社会に対する思いを平盟な言葉で句に詠んでおり、当時の社会状況や日常生活の実情を今日に伝えるものともなっています。
平成25年3月 墨田区教育委員会

 万治2年(1659)、堅川が開削されると五つの橋が架けられ、隅田川に近い方から一之橋から五之橋と名付けられました。そのニツ目の橋で、長さ10間(18m)、幅3間(5.4m)ほどありました。
 池波正太郎の 「鬼平犯科帳」 では、ニ之橋は 「ニツ目橋」 という名で数多く登場します。鬼平が事件を解決するなかで、弥勒寺門前のお熊婆のいる茶店 「笹や」 へ行くにも、大川から舟で乗付けて軍鶏なべ屋 「五鉄」 に立寄るにも、この橋は必ず登場し、正に欠かせない場所となっています。
 現在の橋は平成10年(1998)に架橋されたものです。

ニ之橋橋標(親柱)

小林一茶居住の地説明

ニ之橋説明