付け火が明和9年(1772)の目黒行人坂の大火は約15000人が亡くなったといわれ、明暦の大火に次ぐものでした。その下手人を捕らえたのが、平蔵宣以の実父・長谷川平蔵宣雄です。
 この手柄で、同年秋に京都町奉行所に出世しましたが、年号が変わった翌安永2年(1772)6月に客死してしまいました。家督を継いだ平蔵宣以は、天明7年(1787)42歳の時に火付盗賊改方の長官に就任することになります。
 京都へ家族で移るまで住んでいたのが、入江町の屋敷でした。義母に 「妾腹の子」 といじめられ、その反発で屋敷を飛び出し、本所深川を根城に 「入江町の銕」 と呼ばれ、後に密偵となる相撲の彦十などを引き連れ、放蕩無頼の青春を送っていました。
墨田区

菊花橋橋標(親柱)

鬼平情景・長谷川平蔵の旧邸説明

菊花橋(きくはなはし)