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姫街道   (豊隆団地~西気賀


平成31年4月19日(金)   ☀|☁    豊隆団地(最古の道標)~西気賀    14.0㎞
昨日は豊隆団地の最古の道標で終了したため、今朝は遠州鉄道の自動車学校前駅から最古の道標まで3度目の道となった。ここから先は、三方原台地を西に進むことになり、途中は街道の名残松が断続的に続いている。三方原は、江戸時代に都田村・和地村・祝田村の三方の村から農民が草刈りをする共有の原野だったため、「三方が村の原」 と呼ばれたという。

最古の道標 二重坂 追分一里塚 直線の道
午前7時に最古の道標に出て本日の街道歩きのスタートである。
この道標は、浜松市域の姫街道沿いにある道標の中では最も古い天保3年(1832)の建立である。道標には「右 きが かなさし」 「左 庄内道」 と刻まれている。
最古の道標から県道261号に出ると、北西に向かって長い二重坂(ふたえざか)が延びている。坂の途中、右手には近衛歩兵上等兵の鈴木定太郎君碑が建っている。 二重坂を上り切って暫く進み、一里塚橋交差点で国道257号を超えると、左手に追分一里塚跡がある。
ここは江戸日本橋から数えて66里目の一里塚跡であり、塚上に一里塚碑と数本の松の木が植えられている。
街道は、追分一里塚の少し手前から、ほぼ直線の道が4~5㎞ほど北西に向かって延びている。

半僧坊里程標 松並木 一番太い松 姫街道橋
追分一里塚跡から800mほど先の元追分交差点の中央に奥山半僧坊里程標と手前に小さな道標が建っている。
この交差点は道路がX状に交差し、小さな道標は、「右みやこだ」 「中かなさし」 「左きが」 と三方向を指しており、ここは東海道の浜松宿からの重要な分岐点の三方原追分であった。
元追分交差点から先は、松並木が断続的に続いている。
左手の浜松葵会計事務所の壁には、清田定春の 「姫君様行列の図」 が描かれ、その手前に 「姫まつ燈籠」 が設置されている。
壁画のところから100mほど先の”Le"不動産の前に、姫街道の松並木の中で一番太い松の木がある。
目通り3m、根回り4mで、推定樹齢200年と言われている。ここから直ぐ先の追分上バス停には、姫街道の松並木解説が設置されている。
追分上バス停の先で、東名高速道路を昭和43年(1968)竣工の姫街道橋で渡っていく。

松並木 荻野原橋 三方原神社 士族屋敷跡
東名高速道を越えてからも暫く、松並木が断続的続いている。
姫街道は、東海道よりも古い街道で、本坂道とも呼ばれていた。姫街道の松並木は、現在は葵東(あおいひがし)の追分交差点から葵西、花川町、大山町まで3.8㎞にわたり、200本あまりのクロマツとアカマツが残っている。
先に進むと街道を横切る伊佐地川に架かる荻野原橋がある。
伊佐地川は、浜松市伊左地町の北東に源を発し、下流で浜名湖に注いでいる。伊佐地川と地名の伊左地は、若干字が異なるが、地名は鎌倉時代の古文書に書かれていたものが最初であるという。
荻野原橋の渡り詰め右手の筋を、伊佐地川に沿って200mほど上流に進むと、左手に三方原神社がある。
三方原神社は、浜松城にあった東照宮を、大正11年(1936)に徳川家康ゆかりの三方原村に移して祀られたものである。祭神は徳川家康であるが、2代秀忠、3代家光も合祀されている。境内には、道標を兼ねた不動明王像、扶持米倉庫跡、四勇士の碑、気賀林の碑などがある。
三方原神社の南を通る道路を一本挟んだ向かいに、士族屋敷跡がある。屋敷跡の遺構はなく標柱が建っているのみである。
脇に解説板があるが、文字が消えていて読めない。明治初期、およそ800名の士族が三方原に入植したが、農業は成功せず、間もなく離散が続き、住宅もほとんどなくなったという。

本乗寺 松並木 姫街道碑 気賀門跡碑
三方原神社の北東100mほどのところに、日蓮宗の三寶山本乗寺がある。
本乗寺は、明治28年(1895)泰妙院日輝上人の開山で、三方原は明治より入植が進み、地元有志と遠州の偉人・金原善明の尽力により、妙恩寺塔中本城坊を移したことから本乗寺となったという。
境内には、精鎮塚と刻まれた三方原合戦戦没者の墓がある。
本乗寺から街道に戻ると、まだまだ松並木が続いており、追分上バス停にあった松並木解説と同じものが、松の木の脇に設置されている。 先に進むと、右手の遠州鉄道三方原営業所前の姫街道車庫バス停脇に、姫街道碑が建っている。 遠州鉄道三方原営業所の隣の駐車場の一角に、気賀門跡碑が建っている。
脇にある解説は文字が消えて読めないが、この門跡は、この地から北に位置していた救貧院を創設した地元の気賀林の三方原別邸の門跡である。
気賀林については、三方原神社に顕彰碑があるが、明治10年(1877)三方原救貧院の創設をはじめ、福祉・教育・社寺への寄付等、地域行政に大きく貢献した。

ごんひち 松並木解説 東大山一里塚跡 江川永脩屋敷跡
気賀門跡碑の直ぐ先の葵町交差点で県道65号(浜松環状線)を渡ると、左手に 「ごんひち」 という商店がある。
店の前に 「権七店」 の説明板が建っており、かつて、この辺りは松並木が続き、権七店までは家が無く寂しいところであったという。
松並木の道を先に進むと、大山入口交差点の手前にある松の木に小さな解説が付けられている。
姫街道の松並木のまわりや、畑のすみみを見ると、丸い石がたくさんあるが、これは天竜川の上流から流れて来た河原の石の名残とのことである。
大山入口交差点の直ぐ先に、東大山一里塚跡がある。
一里塚は両塚とも残っているが、解説が無ければ良くわからない程度の高さである。南側の塚前には祠があり、中には自然石の馬頭観音が祀られている。
ここは江戸日本橋から数えて67里目の一里塚跡である。
松並木は左手の常葉リハビリテーション病院の前で途切れ、そこからやや下り坂の道を100mほど進んだ右手筋に入ると、左手の茶畑の前に江川永脩屋敷跡がある。
江川永脩は、徳川家の旧臣で、江川太郎左衛門の一族である。

大谷橋 大谷の石仏 曲り松・松島十湖句碑 無人販売
街道に戻って坂道を下って行くと、和地大谷川(わじおおやがわ)に架かる平成5年9月竣工の大谷橋がある。
和地大谷川は、浜松市北区都田付近に源を発し、下流で花川に合流している。かつて、この川を越えるのに飛び石を渡って通行したと言われている。
大谷橋を渡り、左手に大谷ゴルフパークを見て先に進むと上り坂となり、右手の法面の石段を上がると、藪の中に石仏がある。
石仏の台座には文字がびっしりと刻まれ、傍らには陸軍歩兵一等卒山本藤平之墓と刻まれた墓石などがある。
坂道を上りきって信号交差点を一つ渡り、右手の静岡県立西部特別支援学校を過ぎると、左手に曲り松と松島十湖の句碑 「別れるは また逢ふはしよ 月の友」 がある。
現在の松は3代目で、ここは江戸時代、気賀の領主や街道を通る行列を送迎した場所であった。また、ここには昭和5年(1930)に昭和天皇が浜松ご巡幸の際ここに立ち寄った記念に建てられ碑がある。
真直ぐな道を進んで行くと、歩道脇に直売の幟が立つ無人販売があった。
段ボール箱には、あまなつ3個入、えんどう豆の袋詰めが置かれていたが、いずれも100円の値が付いていた。

旧道口 道標 六地蔵尊 八幡神社
古い家屋のような雰囲気の細江湖東簡易郵便局の前を通り、手嶋歯科医院を過ぎると、左手にガードレールが設置された旧道口がある。
ここで県道261号と分かれて西に進んで行く。
旧道口から250~60mほど先の信号交差点の左角に小さな道標が建っている。
道標の正面には、「右 大山 和地 庄内 方面」 「左 浜松方面」 と、裏面には、「道路改築記念昭和15年3月」 と刻まれている。
小さな道標の向い側に当たる信号交差点の角には、覆屋に六地蔵尊が祀られている。
傍らにある説明板によると、六地蔵尊の裏の竹藪は、昔、刑場であったため、その刑死者の霊を弔うために正徳2年(1712)に建立されたものだという。
竹藪の前には姫街道道標があり、「←浜松宿2里34町 六地蔵 気賀宿25町→」 と記されている。
六地蔵尊から250mほど先の右手の細い筋を、北に200mほど入ったところに八幡神社がある。
八幡神社の創建年代等は不詳であるが、境内には寛延2年(1749)の手水石がある。
八幡神社に拝殿らしきものは見当たらず、集会所のような建物があるのみである。

山神社 常夜燈 千日堂 長坂改築記念碑
街道に戻って暫く広い単調な道を進むと、ミカン畑や遠くの山並みが目に入り、鉄塔を過ぎた辺りの左手の小径を入ると、林の中に山神社がある。
山神社の創建代等は不詳であるが、拝殿奥に小さな本殿が安置され、境内には愛宕神社の境内社、忠魂碑などがある。
街道に戻って100mほど進むと、Y字路の中央部に秋葉山常夜燈が建っている。
姫街道は、ここを右に分岐していく。
この常夜燈は、文化8年(1811)にこの地域の人達によって建てられたものである。
常夜燈の先を進んで行くと、左手の林の中に千日堂がある。
千日堂は、寛文11年(1671)呉石の近藤家下屋敷にあった観音石像を移して祀られたと伝えられている。また堂内には気賀近藤家二代用治、三代用由の位牌が祀られている。
境内には、如意輪観音像、南無阿弥陀仏名号碑、小社などがある。
千日堂の先でみかん畑とまばらな集落の中の道を進むとY字路があり、中央に昭和29年(1954)2月15日竣工と刻まれた長坂改築記念碑が建っている。
ここを左に進むのが、姫街道の旧道である。

老ヶ谷一里塚跡 配水タンク 服部小平太最期の地 長坂
Y字路を左に進んで間もなく、左手に老ヶ谷の一里塚跡がある。
近くには姫街道道標があり、一里塚碑の脇には、老ヶ谷の一里塚と長坂の解説板が建っている。
ここは江戸日本橋から数えて68里目の一里塚跡である。
老ヶ谷の一里塚跡の直ぐ先で中央配水池の配水タンクに突き当たる。配水タンクには姫様道中の文字と姫様の絵が描かれている。
ここでも道は二股に分かれ、左の方がちゃんとした道だが、姫街道は右の荒れた下り坂に入っていく。ここにはガードレールに姫街道道標が貼られている。
坂道を下ると程なく右手の木の下に服部中保次様最後之地碑が建っている。
脇にある解説板には、服部小平太最期の地と記されている。服部小平太(中保次)は、今川義元を討った功労者であり、この地を治めたが、もともと今川領であったため、恨みを持つ者もあり、この辺りを巡視の折、何者かに討たれた。
服部小平太最後の地から土道を下り、右から回り込んできた長坂改築記念碑で分かれた道を横切ると、更に長坂の下り坂は急になる。

秋葉山常夜燈鞘堂 服部小平太の墓 宗安寺跡 刑部城跡
長坂を下り、下道と合流するところに秋葉山常夜燈鞘堂が建っている。
この鞘堂は平成23年に修復されたものだが、修復前の鞘堂内に常夜燈は無く、木製の燭台、お札納めなどがあり、弘化4年(1847)の棟札が残っていたという。
秋葉山常夜燈鞘堂の先を左に行くのが姫街道であるが、ここを右に80mほど進んだ9区地区コミュニティ防災センターの裏の斜面に、服部小平太の墓がある。 街道に戻って秋葉山常夜燈鞘堂の先を進むと、左手に宗安寺跡がある。
参道跡に解説版が建っており、現在は参道の石段とその奥に石垣が残るのみで、明治の廃仏毀釈で廃寺となった後は、荒れた草地のままである。
宗安寺跡を過ぎて、その先で県道261号を横切って進むと、左手の小丘に金山神社がある。
ここは今川方の刑部城跡で、永禄11年(1568)徳川家康の攻撃で落城した。
金山神社には、城の一部であったと思われる巨石や、役行者像などがある。

大橋 落合の渡し付近 落合橋 宝生地蔵菩薩
街道に戻ると水路に架かる昭和56年2月竣工の大橋がある。
姫街道は、刑部城を廻るように通っていた。
大橋を渡り、左手に刑部城跡(金山神社)を見て進み、突き当りを右折して、その先の十字路を左折すると、都田川に突き当たる。
江戸時代は、この辺りに落合の渡しがあった。明治時代には、ここに旧落合橋が架けられていたが、取り壊されて下流に新しい落合橋が架けられた。
旧落合橋の下流に、都田川に架かる昭和52年3月竣工の落合橋がある。
都田川は、北方の愛知県の県境に近い当りに源を発し、落合橋の上流で井伊谷川を合流して浜名湖に注いでいる。落合橋の名前は、文字通り都田川と井伊谷川が落合う所に架かっていることに由来する。
落合橋の渡詰め右手に、コンクリートブロックで造られた祠の中に宝生地蔵菩薩が祀られている。
この地蔵菩薩は、江戸時代の中頃のもので道標を兼ねており、「右はままつへ三里半」 「左秋葉山道宮口へ二里 二俣へ四里」 と刻まれている。

天竜浜名湖鉄道 気賀四ツ角 龍潭寺 井伊谷宮
先に進むと天竜浜名湖鉄道の高架が街道を横切っている。
天竜浜名湖鉄道は、通称天浜線と呼ばれ、掛川と新所原間の約68㎞の鉄道路線である。
気賀四ツ角で西に直進する国道362号が姫街道で、右に北上する道は井伊谷への道である。気賀四ツ角にはポケットパークがあり、姫街道道標、高札を模した気賀関所の看板がある。
気賀四ツ角を北上した井伊谷は、NHK大河ドラマ 「おんな城主直虎」 で有名になった龍潭寺や井伊谷城跡などがある。
井伊谷には、本日の帰りに寄ったが、ここで掲載しておく。
龍潭寺は、天平5年(733)に僧行基によって開創されたと言われ、室町時代末期、20代直平が帰依した黙宗瑞淵和尚を開山として臨済宗妙心寺派の寺院となり、万松山と号した。
本尊は虚空蔵菩薩で、墓地には井伊家墓所、井伊家を支えた武将の墓などがある。
龍潭寺の北側に隣接して井伊谷宮がある。
井伊谷宮は、明治維新の際、建武中興に尽力した人々を祀る神社が作られる中で、宗良親王を祀る神社として創建された。宗良親王は、後醍醐天皇第四皇子であり、約650年余前の南北朝の動乱の際、一品中務卿征東将軍として、この地を本拠に50余年の間吉野朝のため活躍された。
境内には、摂社井伊社、慈母観音石、水原秋櫻子句碑などがある。

井伊谷城跡 気賀関所跡 江戸椎 細江神社
井伊谷宮から1㎞ほど北側に井伊谷城跡がある。井伊谷城は万寿9年(1032)には、井伊共保が本丸、二の丸、三の丸などで構成された山城を築城したと伝わる。その後、井伊直政の父・井伊直親などが城主を勤めていたが、直親が今川氏真に謀殺された後は、井伊直虎(次郎法師)が城主を勤めた。
大河ドラマ 「おんな城主直虎」 の放送後、
城跡の頂上まで道が整備され、約15分ほどで頂上に行くことが出来る。
ここからは、街道を先に進むこととする。
気賀四ツ角を渡った右手のききょうや化粧品店の脇に気賀関所跡がある。気賀関所は気賀宿の東の入口にあり、慶長6年(1601)徳川家康により東海道本坂道の往来の取り締まりのために創建されたと言われている。
現在、気賀関所の建物は、一部がこの奥に残されているが、気賀駅の南側に全体を復元したものが整備されている。
気賀関所跡の先の信号交差点の右手筋奥に浜松市立気賀小学校があり、校庭の前に大きな椎の木が立っている。
ここは関所を管理した近藤家の陣屋跡で、この椎の木は陣屋の庭に植えられていたものである。
街道に戻ると、程なく右手に細江神社がある。
細江神社は、地震災難消除のご利益があるといわれ、本殿には、500年以上前に現湖西市にあった角避比古(つのさくひこ)神社のご神体が祀られている。境内には、社殿を守るように樹齢500年を超える楠の大木が茂り、浜松市の天然記念物に指定されている。また境内社として藺草(いぐさ)神社・八柱神社・四所神社・稲荷神社・天満宮・八幡宮などがある。

気賀駅 中村本陣跡 本陣前公園 正明寺
街道に戻って進み、気賀駅北交差点を左折すると、要害堀を渡った先に気賀駅がある。
要害堀は、気賀関所の防備のために設けられたもので、長さは390間(約700m)あり、この内作場通いの渡り場が二ヶ所あったが、ここを通るには定められた舟揚札を持って出入りした。またこの掘では網打等殺生を禁じていた。
気賀駅舎は、木造平屋建、寄棟造、赤色の洋瓦葺が北面し、国の登録有形文化財に指定されている。
街道に戻ると、右手のNTT細江ビルの前に中村本陣跡がある。
気賀は、天正15年(1857)本多作左衛門によって宿と定められ、東海道本坂通(姫街道)で最も重要な宿場となり、本陣は中村家が勤めた。宇布見村の中村家は、徳川家康の次男秀康が生まれた家として知られ、中村家の次男与太夫は、本田作左衛門の世話で気賀の代官となり、これが後に気賀宿本陣中村家となった。
続いて左手に本陣前公園がある。
公園の入口脇には、寛政12年(1800)の石塔に掘られた馬頭観音が祀られており、公園内には岡田力三作の姫様の像と、天保6年に三州吉田藩に生まれた明治時代の国文学者・河合象子の歌碑がある。
本陣前公園の街道を挟んだ向かいに、臨済宗方広寺派の池松山正明寺がある。
正明寺は、永禄3年(1560)の創建といわれ、気賀宿の本陣をつとめた中村家の菩提寺である。本陣が危険な場合は、逃避する御退場寺に指定されていた。
大正15年(1926)には、廃仏毀釈以来廃絶していた隣の妙見寺を合併し、妙見堂として本尊を安置している。

西の枡形 獄門畷 分岐 活民院殿参道
街道に戻ると、緩やかに曲がる西の枡形があり、左手に安政4年(1857)の常夜燈が建っている。 西の枡形を抜けると、左手に 「堀川城将士最期之地」 と刻まれた供養碑が建っており、ここは獄門畷と呼ばれている。
傍らには、獄門畷の解説板が建っている。永禄12年(1569)今川方についた尾藤主膳らと地元の百姓など2千人が堀川城に立てこもり、千人が殺された。戦の後さらに700人が打ち首となり、この川沿いにさらし首となったため、獄門畷と呼ばれた。
獄門畷の直ぐ先にY字路があり、姫街道はここで国道362号と分かれて右に進んで行く。 先に進むと右手に活民院殿参道と刻まれた石柱が建っている。活民院殿とは、江戸時代の大地震で被害を受けた気賀の復興に尽力した領主近藤用随の法名である。
石柱の先の山道を登っていくと、気賀近藤家墓所があり、用随をはじめ9名の墓がある。近くには天和2年(1682)の姫地蔵と呼ばれる地蔵菩薩立像がある。

全得寺 諏訪神社 薬師堂 旧道
街道に戻って間もなく、右手に臨済宗方広寺派の知足山全得寺がある。
全得寺は、永禄年間(1558-69)に堀川城将の一人竹田十郎高正が創建し、一族の菩提寺としたが、隣接する諏訪神社の棟札から天文21年(1552)には存在していたようである。全得寺は斜面の中腹に建っており、境内にはたくさんの石仏の他、若宮神社・水天宮などの境内社がある。
全得寺の西側に隣接して諏訪神社がある。
参道口には、秋葉山常夜燈鞘堂があり、鳥居の先はかなり急な石段の参道が続いている。諏訪神社は、弘治元年(1555)新田喜斎の供として、常陸国より呉石の里に移り住んだ竹田家の祖が、信州の諏訪大社より勧請して氏神とした。
街道に戻って進むと、左手の呉石区コミュニティ防災センターの向いの筋に薬師堂がある。正方形の御堂は、トタン葺きで、しっかりした石垣の上に建てられているが、由緒などは不明である。 薬師堂を過ぎるときれいに積まれた石垣が続き、のどかな街道となる。

呉石田園公園 小深田橋 金地院道道標 道祖神
あまり車の通らない街道を進んで行くと、右手に呉石田園公園がある。
公園の角には、二宮金次郎の正座している像がある。ここは呉石学校の跡地で、呉石学校の跡碑、奥浜名湖地域の藺草栽培の説明板などがある。
呉石田園公園の前に葭本(よしもと)川に架かる小深田橋がある。
橋の手前右手筋を500m上ると長楽寺がある。長楽寺は遠州三名園の一つと言われる回遊式庭園があるが、ここは寄らずに先に進むこととした。
小深田橋から100mほど先のY字路中央に大正12年(1923)の金地院道道標が建っている。道標には、正面に 「是ヨリ金地院道」 「左三ケ日往還」 と刻まれている。
街道は、ここを右に進んで行く。
金地院道道標の先を80mほど進むと、再びY字路があり、左に入ると直ぐ右手に道祖神が建っている。
隣には南無妙法蓮華経題目碑があり、よく見ると右面に文字が刻まれ、道標を兼ねているようである。ここから上り坂となり、近くには姫街道道標も建っている。

二宮神社 小森橋 姫街道道標 山崎橋
坂道を上りきってみかん畑の間を進むと、左手に二宮神社がある。
二宮神社は、街道には背を向けており、参道は南側を通る下道に面している。二宮神社の祭神は、この地で急病のため亡くなった宗良親王の妃駿河姫である。境内にはホルトノキとナギの木があり、いずれも細江町指定天然記念物となっている。
街道に戻り坂道を下ると、小森川に架かる小森橋がある。
小森川は北側を走るオレンジロード付近に源を発し、直ぐ下流で葭本川に合流して、浜名湖に注いでいる。小森橋には姫街道道標があり、街道は橋を渡って直進して行く。
小森橋の先でT字路に突き当たると、正面に姫街道道標が建っている。
街道は、ここを道標に従って右折して行く。
T字路を右折して30mほど先で、左手に上がる坂道がある。
坂道の塀には姫街道の道標があり、ここから山道に入っていく。

山村修理の墓 山田の一里塚 下り坂 ダイダラボッチの足跡
坂道を登ると間もなく、右手に山村修理の墓所(修理殿松)がある。
永禄12年(1569)3月27日、徳川家康に攻められた気賀の堀川城は落城し、城将の一人だった山村修理は舟で逃れ、ここから燃える城に向かって戦死者の冥福を祈りつつ切腹した。その霊を弔い、村人が松を植えた。この松は枯れて存在しないが、修理の墓と堀川城戦死之碑が建っている。
山村修理の墓を過ぎて、坂を上りきった右手に、山田の一里塚跡がある。分かるほどの塚は残っていないが、一里塚碑が建っている。
ここは江戸日本橋から数えて69里目の一里塚跡である。
山田の一里塚跡を過ぎると、その先は一気に下って行く。
坂道の先に集落が見えている。
坂道を下りきったところは、みかん畑のある集落で、みかん畑の前には姫街道道標があり、街道脇にダイダラボッチの足跡と呼ばれる池がある。
この池は、琵琶湖を掘った土を運んで富士山を造ったという、伝説の巨人ダイダラボッチの足跡と伝えられている池である。

道祖神 上り坂 清水みのる詩碑
直ぐ先の右手筋の角に石柱の道祖神があり、脇に馬頭観音が建っている。
傍らには姫街道道標が建っている。
道祖神の先は、みかん畑の間を通るかなり急勾配の上り坂となる。 坂道の途中、左手に祠が街道に背を向けて建っており、中に小さな石祠が二つ祀られている。
祠の脇には、観音菩薩を刻んだ小さな供養塔が建っている。
坂道をほぼ上りきった右手の筋角に、清水みのる詩碑が建っており、「尋ねようもない幾年月の流れの中で姫街道は今も静かに息づいている」と刻まれている。
清水みのるは、細江町出身の作詞家であり、作曲家倉若晴生、歌手田端義夫とのトリオで、「かえり船」、「別れ船」 などのヒット曲を出している。

赤砂利稲荷 分岐 石畳 集落
清水みのる詩碑の脇の道を登ってオレンジロードに出ると、その先に赤砂利稲荷がある。
赤砂利稲荷は、別名 「廣玉稲荷」 と呼ばれ、大変な急斜面に建っており、姫街道や浜名湖が一望できる。
この地は、鎌倉時代から南北朝にかけて修験道場として栄えていたが、南朝の滅亡とともに衰退してしまったため、村人達が山伏を偲んで祠を建てたのが始まりと伝えられている。
街道に戻って先に進むと分岐があり、姫街道は左の道を下って行く。
この分岐には、姫街道道標と小引佐解説があり、直ぐ先に塞ノ神を祀った祠などがある。
分岐の先を進むと程なく石畳の道となり、みかん畑の中を蛇行しながら下り、その先で竹林の中を通り、更に下って行く。 石畳を下って行く途中で、これから向かう集落が木々の間から見えている。

姫街道道標 薬師堂 姫街道道標 姫街道道標
坂道を下り切ったところで、西気賀駅方向から来る道に合流すると、右手に姫街道道標が建っている。 先に進むと右手に薬師堂が建っている。
薬師堂の創建年代は不詳であるが、本尊の薬師如来の台座の裏の銘文から、天保6年(1835)に再建されたことが分かっている。
御堂の隣には、文化2年(1805)の秋葉山常夜燈が建っている。
薬師堂の直ぐ先で岩根川を渡り、道なりに左に進んで行く。
昔は土橋だったという橋にも姫街道道標が建っている。
岩根川を渡って坂道を上っていくと、やや広い道に合流するが、この突き当りに姫街道道標が建っている。
本日は、ここで終了し最寄りの西気賀駅に出て、途中、井伊谷の龍潭寺などに寄ってから宿に行くこととした。

西気賀駅
昭和13年に建てられた西気賀駅は、国の登録有形文化財となっている。
本屋は、木造平屋建、寄棟造、赤色の洋瓦葺が南面している。また、正面入口と背面ホーム側に引き分け木製吊り戸が、待合室の東面一杯には造り付けのベンチと木製改札口が、それぞれ当所のまま良く残されいる。

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