山村修理の墓解説

 戦国時代末期、気賀、中川は今川氏と徳川氏の勢力の境界地域でした。気賀の領主で今川方の新田友作は、かつて今川義元の家臣であった尾藤主膳、山村修理等とともに、永禄10年から11年(1567-68)にかけて堀川城を築きました。しかし遠州攻略を目指す徳川家康の攻撃により、永禄11年3月には落城してしまいました。
 永禄11年12月、徳川家康は、駿河に進攻しようとする武田信玄に対抗し、再び遠州攻略を企てました。このときの功績により、後に 「井伊谷三人衆」 と呼ばれたのが菅沼二郎右衛門、鈴木三郎太夫、後の旗本近藤家を築いた近藤石見守です。
 遠州に攻め入った家康に対し、尾藤主膳、山村修理等は一揆を企て、内山党を始め地元民男女1500~1600人とともに堀川城に立てこもりました。しかし永禄12年(1569)3月27日、家康軍の攻撃の前に1日で落城、捕虜700人が呉石の塔の下で処刑されたと言い伝えられています。落城のとき舟で逃れた山村修理は、この場所で燃え落ちる堀川城を見ながら切腹したと伝えられています。かつてここには松の古木があり、「修理の松」 と呼ばれていました。

  (細江町教育委員会)

永禄12年3月27日 堀川城戦死之碑

林の奥にある石祠

永禄12年(1569)の山村修理殿墓