ここには樹齢約500年を経て、あたかも地中から這い出て体がよじれた龍のような松があり、曲がり松と呼ばれていました。ここは姫街道と庄内二俣線(旧道)の交差点で、江戸時代には、気賀の領主や街道を通る行列を送迎した場所であったと言われています。
「松奏離歌」 と題する俳人松島十湖の句碑は、明治16年から引佐鹿玉部長を務めた十湖が、明治19年2月部長を辞した日、曲り松まで見送りに来た郡民との別れの感慨を詠んだ句を刻んだものです。「別れるは また逢うはしよ 月の友」
月の友とは月見の仲間、つまり友人です。友との別れはまためぐり会うきっかけだよ、という意味です。
「御巡幸記念」 の石碑は、昭和5年6月1日、即位して間もない昭和天皇が巡幸の際この松をご覧になったことを記念し、旧中川村第十区が建立したものです。
昭和48年、曲り松は枯れてしまいましたが、名勝、史跡を後世に伝えようとする有志の努力により新たな松が植えられ、破損していた句碑も修復されました。
(細江町教育委員会)
御巡幸記念碑
曲り松 (三代目)
松島十湖句碑
昭和5年(1930)昭和天皇が浜松巡幸の際、ここに立寄られ松をご覧になった記念に建てられた。
別れるは また逢ふはしよ 月の友
曲り松と松島十湖句碑の解説
松島十湖句碑裏面
碑文記が刻まれ、上部にその銅板が貼られている