笠柱部に 「秋葉山文化八辛末六月吉日当所若者」 と刻まれています。文化8年(1811)、この地域の人たちによって建てられました。
 秋葉山は、かつては戦国武将や大名から武運長久の信仰を集め、第二次世界大戦の頃まで出征兵士と家族の信仰を集めていました。今のように火防の信仰として広く普及したのは、貞享2年(1685)の秋葉祭以後といわれています。秋葉山の御幣や神輿を鉦や太鼓で村送りしたこの祭は、あまりの熱狂ぶりに幕府によって中止されました。しかしこれをきっかけとして、庶民の秋葉山参詣が盛んに行われるようになりました。
 秋葉山参詣の道を秋葉道とよびます。この付近では、落合~川久保~船頭~祝田~デコロボウ坂~三方原~宮口に至る道筋と、清水~五日市~金指~都田~宮口に至る道筋が秋葉道といわれています。
 秋葉講は、講中でお日待ちをしたり、費用を出し合って秋葉山の代参をしました。また、常夜燈を秋葉道や村々の辻に建て、講中の家々が毎晩交代でお灯明を上げたりしました。今もこれを続けている地域もあります。 

文化8年(1811)の秋葉山常夜燈

老ヶ谷の秋葉山常夜燈解説

常夜燈脇に建つ姫街道標識