ここはかつて、江戸から68里目の一里塚がありました。「宿村大概帳」 には 「木立松、但、佐之塚は気賀村地内、右之塚は中下刑部村地内」 と記されていて、道の両側に松の木を植えた築山があったことがわかります。近くには富士見茶屋と呼ばれる茶屋もあったと伝えられています。
 ここから新屋に下る坂道を長坂と呼び、今も古い街道の面影が残る坂です。坂の途中には、桶狭間の戦いで今川義元を討った服部小平太と同名の服部小平太中安次の最期の地があります。服部小平太は天正年間にこの地の領主となりましたが、天正15年(1587)6月18日、長坂を通行中、何者かに襲われ亡くなりました。新屋には、服部小平太の霊を祀るために建てられたと伝わる宗安寺がありました。明治時代の廃仏毀釈で廃寺となり、石段などが残っています。

老ヶ谷の一里塚跡

一里塚碑

植栽の中の姫街道道標

長坂の切り絵

周辺図

老ヶ谷の一里塚跡と長坂解説