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姫街道   (見付~豊隆団地


平成31年4月18日(木)   ☀|☁    見付(姫街道分岐)~豊隆団地(最古の道標)    12.0㎞
ようやく好天の日が続くようになってきたので、今年初めての街道歩きをスタートさせることとした。
姫街道は江戸幕府道中奉行管轄の東海道脇往還であり、見付けと御油間の約60㎞あまりの街道である。浜名湖の北側を通り、正式名称は 「本坂通」 といい、三河国と遠江国の境にある本坂峠を越えている。

姫街道分岐 河原橋 西光寺 秋葉山常夜燈
始発電車で家を出てから約4時間で旧東海道と姫街道の分岐に到着である。
ここには、「遠州見付宿これより姫街道三州御油宿まで」 と記された木製道標が建っている。
姫街道に入って直ぐ今之浦川の支流である加茂川に架かる昭和25年竣工の河原橋がある。
住宅地の間を流れる川は、コンクリートで整備された水路といった感じである。
河原橋を渡ると直ぐ左手(南側)に時宗の東福山西光寺がある。西光寺は、文永2年(1265)真言宗の傾木和尚により創建され、阿弥陀如来を本尊とする。表門は徳川家康が別荘として中泉村に築かせた中泉御殿の表門を移築したものであり、境内には推定樹齢500年というクスノキの大木、推定樹齢250年のナギの大木がある。写真の寺標の脇にあるのは、木戸跡のモニュメントである。 街道に戻ると直ぐ先のY字路中央に、元治元年(1864)の秋葉山常夜燈が建っている。
街道は常夜燈の右手の道を上っていく。

秋葉神社 下道合流 一本松碑 かぶと塚公園
常夜燈の先の坂道を200mほど進むと、右手の駐車場の奥に秋葉神社を祀った小社があり、中に正一位秋葉神社火災鎮護の御札と弘法大師像が安置されている。 秋葉神社を過ぎると、常夜燈の所で分かれた下道と合流する。
右手の緑地は、かぶと塚公園である。
下道と合流すると右手のかぶと塚公園の石垣の前に、小さな一本松碑が建っている。この碑は、平成3年に見附公民館運営協議会によって建てられたものであり、石垣の上には枯れた旧一本松が横たわっている。 かぶと塚公園には、静岡県内最大の直径80m、高さ8mの円墳があり、5世紀前半に築造されたと推定されている。
かぶと塚公園の名前は、古墳の形が兜を伏せた形に似ているところから、この名が付けられたと言われている。

旧道口 秋葉山常夜燈 一言坂 池田近道道標
かぶと塚公園を過ぎて磐田警察署前で県道413号線に合流し、直ぐ先の横断歩道橋のところから右手に分かれる旧道口がある。 旧道を120~30mほど進むと、右手に秋葉山常夜燈の鞘堂が建っている。
この辺りは、かつて立場があったところである。
秋葉山常夜燈鞘堂から100mほど先で、左に分かれる下り坂(一言坂)がある。
坂の途中左手の県道413号線脇に一言坂戦跡碑があり、姫街道筋には一言坂戦跡の解説がある。
一言坂の途中、右手に池田近道(姫街道)の道標がある。
この道は、古くより池田近道と呼ばれ、東海道が見附宿から中泉代官所の方へ南下して、さらに豊田町森下付近から池田渡船場まで北上する遠回りな道であったため、見附宿から真直ぐ西に出て一言坂を通り、池田渡船場まで斜めに直線的に抜ける道(姫街道)が好まれた。

寺谷用水の交差点 智恩斎 田園の道 豊田四号橋
一言坂を下ったところで祝川を渡り、田園風景の中を北西に進むと、寺谷用水のところで信号交差点を斜めに横断して民家の間の道に入っていく。
寺谷用水は、天正16年(1588)徳川家康の命で天竜川の水を分水した農業用水である。
民家の間を西に進むと、右手に智音斎の石標があり、その奥に曹洞宗の智恩斎がある。
智恩斎には、一生に一度だけ願いを叶えてくれる 「一言観音」 が祀られており、徳川家康が一言坂の戦いで武田軍に包囲された時、この観音に 「助けてくれ」 と頼んだところ、武田軍の包囲網が崩れ、脱出することが出来たと言われている。
智恩斎の先の旧道は消滅しているため、直線的に進める田園の中の道を進むこととした。 先に進むと、ぼう僧川に架かる豊田四号橋がある。ぼう僧川は、下流で太田川に合流するが、合流までの間にいくつかの支流を集めており、この水路もその一つである。

弥藤観音 磐田バイパス 池田近道道標 長福寺
豊田四号橋の先の十字路を左折して、南に150~60mほど進んだ弥藤太島公会堂の敷地内に弥藤観音がある。
この観音像は、如意輪観音菩薩で、いぼ取観音として御利益があるという。
街道迂回路に戻って先に進み、豊田交番の脇を右折すると、磐田バイパスの高架が目の前を横切っている。 磐田バイパスの高架をくぐり、最初の信号十字路を左折すると、右手の水路脇に池田近道(姫街道)の道標が建っている。
ここから旧道に復帰である。
旧道に復帰して、左手の上新屋公会堂を過ぎると、その先の十字路左角に小さな常夜燈が建っている。
正面に磐田郡井通村上新屋道、右面に秋葉御神燈と刻まれている。

上新屋ポケットパーク 道標 常夜燈 粒見堂
常夜燈の直ぐ先に、上新屋ポケットパークがあり、平家物語の平宗盛と熊野(ゆや)の中遠昔ばなしの碑が建っている。
池田の渡し近くにある行興寺には、平宗盛に寵愛された熊野(ゆや)とその母の墓(宝篋印塔)がある。
上新屋ポケットパークを過ぎて先に進むと、二本目の水路脇に道標が建っている。
道標には、「←池田の渡し900m・熊野伝統芸能館1060m、池田川桜並木→」 と記されている。
先に進むとT字路に突き当り、この右角に寛政9年(1797)の常燈明と刻まれた常夜燈が建っている。
ここで旧東海道に合流し、天竜川を渡った安間分岐までは、旧東海道の道筋となる。常夜燈の先を北に進んだ突き当りに池田の渡しがあり、途中にはブロック塀に弘法大師像が安置され、重厚な土蔵が建つなど、街道の面影を残している。
街道左手の火の見櫓の下に粒見堂がある。
永享6年(1434)妙法寺二代目の僧侶が天竜川に聖観世音の尊像が浮かぶ夢を見て、その通り尊像が発見されたという。
当時の村人が穀物(粒)の喜捨を乞い粒見堂を建立した。

天白神社 妙法寺 誓渡院 行興寺
粒見堂の脇を天竜川に向かって進むと、突き当りに天白神社がある。天白神社は奈良時代の女帝・孝謙天皇の頃の創建と言われ、猿田彦命を祀っている。
境内には半僧坊の道標のほか、金比羅宮・東照宮・御嶽神社・松尾神社などの境内社がある。
街道に戻って次の右手筋を入り、突き当りを左折すると、右手に曹洞宗の瑞雲山妙法寺がある。
妙法寺は、応永19年(1412)日蓮宗の寺院として創建されたが、慶長7年(1602)曹洞宗に改宗した。御本尊は薬師如来で、境内には地蔵堂・稲荷神社のほか、高祖道元禅師像などがある。
妙法寺から北に150mほど進んだところに、曹洞宗の済縁山誓渡院がある。
誓渡院は、永正元年(1504)誓渡庵として創建された。御本尊は地蔵菩薩で、境内には、地蔵堂・観音菩薩像のほか、天龍川水難者慰霊の碑などがある。
誓渡院の西側に隣接して、時宗の摂取山行興寺がある。
行興寺は、熊野(ゆや)御前が延久元年(1069)母の死後一宇を建立し、母を弔って暮らした場所であり、その後、正応3年(1290)時宗遊行派として開山した。御本尊は、阿弥陀如来像で、境内には熊野(ゆや)御前と母親の墓(宝篋印塔)があり、本堂周囲に推定樹齢300年の長藤5本がある。

歴史風景館 常夜燈 池田橋の跡碑 中の渡し跡
行興寺を出て街道に戻ると、天竜川堤防の手前に池田の渡し歴史風景館がある。
池田の渡しは、千年も前から続いていたと記録され、館内には徳川家康が池田の渡船衆に与えたと言われる朱印状のレプリカや池田の渡船の歴史が解説されている。
池田の渡し歴史風景館の斜向かいに、町内安全と刻まれた秋葉山常夜燈が建っている。 常夜燈の先から堤防に出ると、右手に池田橋の跡碑が建っている。
池田橋は、明治16年(1883)に架橋された有料の木橋であった。池田橋の跡碑の向いの堤防沿いには、徳川家康が渡船衆に与えた天竜池田渡船許可証のレプリカが掲示されている。
新天竜川橋を渡るため堤防を歩いて行くと、天白神社の裏当たりの堤防斜面に天龍川渡船場跡碑が建っている。
池田の渡しは上中下の三ヶ所あり、ここは中の渡し跡である。通常は最下流の渡船場を使用し、増水時は上流の渡船場を使用したという。

天竜川治水祈念公園 新天竜川橋 ポケットパーク 旧道口
中の渡しを過ぎて国道1号線の高架下をくぐって、県道261号線に出ると右手に天竜川治水祈念公園がある。
ここには県議会議員・衆議院議員として治水事業に関わった大橋頼模君碑が建てられている。
天竜川治水祈念公園前の県道261号線が通る天竜川橋は自動車専用道路であるため、上流側の新天竜川橋で天竜川を渡っていく。 新天竜川橋を渡ると、下流側の天竜川橋渡り詰めとの間に東屋のあるポケットパークがあり、東海道案内が設置されている。
案内には、中野町マップ、かつての木橋・天竜川橋・帆掛舟などの写真が掲示されている。
ポケットパークから県道261号線を渡って堤防脇に降りると、堤防に沿った旧道が下流に向かっている。

横町通り 明治天皇玉座迹の碑 六所神社 旧東海道標柱
先に進むと六所神社手前に横町通り解説がある。ここ横町通りは、江戸時代には東海道と富田・一色の渡船場を結ぶ堤の往来として多くの旅人が往来し、この辺りには川高札が立てられていた。大正時代から昭和初めにかけて、天竜川を利用した流通が盛んになり、木材を筏に組んで川を下る筏師や、上流の久根銅山・峰の沢鉱山から鉱石を運ぶ帆掛船の船頭たちで、この通りは大変賑わっていた。 横町通り解説の奥の堤防脇に、天竜川を向いて明治天皇玉座迹の碑が建っている。
傍らには、明治大帝御聖蹟碑と船橋之記碑が建っている。
明治11年(1878)11月1日、北陸東海巡幸の際、当所で休憩された。御座所は金原明善の設立に係る治河協力社の建物内で、明善夫妻を御謁見された当時の建物は、明治25年焼失し、建物跡の前面に玉座迹の碑を建立した。
明治天皇玉座迹の碑の西側に隣接して六所神社がある。
六所神社は、健治2年(1276)尾張国中野郷より勧請し、三柱の海神と三柱の航海の守り神の六柱の神様が祭神として祭られている。当初の社殿は、天竜川を背にして西向きに建てられていたが、天竜川堤防の改修により南向きとなった。境内には秋葉神社・金刀比羅神碑・舟橋木橋跡解説などがある。
六所神社の脇に旧東海道標柱が建っており、傍らに中ノ町道路元標があり、ここから西に向かって中野町の旧道が延びている。

中野銀行跡 天竜川橋紀功碑 伊豆石の蔵 東橋跡
中野町道路元標から30mほど先の右手に中野町銀行跡がある。中野町は、江戸時代には東海道筋の川越しの集落として、多くの旅人たちで賑わった。また、明治から大正時代には、天竜川の船便を利用した木材や鉱石の流通基地として隆盛を極め、明治15年、この場所で 「竜西社」 が結成され、2年後に 「中野町銀行」 が誕生した。その後西遠銀行と合併し、遠州銀行を経て、今の静岡銀行に吸収された。 更に30mほど先右手に 「紀功碑」 と刻まれた天竜川橋紀功碑が建っている。
この石碑は、天竜川に橋を架ける作業に功績のあった浅野茂平の業績を刻んだものである。浅野茂平は、明治元年の明治天皇東幸に際して天竜川に船橋を架けて安全な渡河に功績を残したほか、明治7年には船橋を再度完成させ、天竜川を挟んだ東西流通の活性化に大きく貢献した。
続いて30mほど先の左手に伊豆石の蔵が建っている。この蔵は、明治時代に伊豆半島から切り出された伊豆石で造られた蔵である。
江戸時代より天竜川流域は船運を利用した交易で、伊豆や江戸と繋がっていた。伊豆で採れた石は、火に強い建築材料として、蔵や塀に使われた。この蔵の壁の石は、流れるような縞模様や海を思わせる緑色が美しく、数ある伊豆石の蔵の中でも大変貴重なものである。
先に進むと県道313号線との交差点右角に東橋跡がある。
かつてここを流れる小川には、土橋が架かっていた。中野町村では一番東の橋であり、東海道を往来する旅人は、皆この橋を渡った。
明治後期から中野町は天竜川の船運による木材の集積地として栄え、この東橋が、中野町繁華街への入口でもあった。

石垣清一郎生家 軽便鉄道軌道跡 松林寺 かやんば高札場跡
街道左手の石垣内科医院のところに石垣清一郎生家の解説がある。
明治18年中野町に生まれた清一郎は与謝野晶子が主宰する新詩社 「明星」 に参加した浪漫派歌人で、「秋の風都へかえる学友の待合室のトランクに吹く」 の抒情歌で知られる。昭和2年に県会議員となり、昭和21年より中野町村村長を務めた。
続いて石垣清一郎生家から100m程先の右手路地に軽便鉄道軌道跡標柱が建っている。
軽便鉄道は、明治42年から、浜松~中野町の11駅間を走っていた。「けいべん」 と親しまれたこの列車は、ラッキョウ型の細長い煙突を持ったミニSLで客車一輌を引いて、家並みの軒先すれすれを、のんびりと走っていた。昭和3年以降は、軌道自動車(ガソリンカー)に変わり、昭和12年に廃線となるまで、沿線住民の足として愛された。
軽便鉄道軌道跡の直ぐ先に臨済宗の鶴翁山松林寺がある。
松林寺は奥山方広寺の開山である無文元選禅師 (後醍醐天皇の息子) が天竜川に近いこの地に足を運んだ折に、草庵を建てて禅師を迎えたとされ、その草庵がやがて松林寺になったといわれている。ご本尊は地蔵菩薩で、境内には徳川家光が浜松城主に命じて建立させたという薬師堂や奥山大権現などがある。
松林寺の向かいに、かやんば高札場跡がある。前回東海道として歩いた時には解説板があったが、現在は標柱のみである。

東海道松並木跡 金原善明生家 本坂通(姫街道)安間起点 安間一里塚跡
松林寺の直ぐ先右手に東海道松並木跡があり、解説板が建っている。
この付近には、かつて東海道の松並木があり、江戸時代の 「東海道宿村大概帳」 によると、中野町村の松並木の延長は北側100間、南側40間となり、町内は家が立ち並んでいたため、松並木はこの一帯だけにあったという。
続いて右手に天竜川の治水に生涯をかけた金原明善の生家がある。
善明は、雨が降り続いた時には、寝食を忘れて水害を防ぐために奔走し、大洪水となった際には、不眠不休の救助活動に努めた。さらに明善は、治水事業を目的とする治河協力社を設立し、堤防工事に努めるとともに川の氾濫を治めるためには健全な森林を育てる必要があるとして、植林にも着手した。築200年の建物と塀は見事であり、表門脇に金原善明翁生家碑が建っている。
県道312号線に合流する手前の右手筋角に本坂通(姫街道)安間起点の解説がある。
この地点は本坂通(姫街道)の起点であり、もと 「従是鳳来寺」 の道標があり、本坂通(姫街道)が鳳来寺道でもあったことを示している。この道標は、現在は150m西にある天竜公民館の敷地に移されている。この起点の西には、江戸から64番目の安間一里塚があり、姫街道の一里塚も兼ねていたが、現存していない。
姫街道安間起点から20mほど西に安間一里塚跡があり、標柱だけが建っている。
ここは江戸日本橋から数えて64番目の一里塚跡であり、姫街道の一里塚も兼ねていた。

普伝院 国道1号線 了願公園 旧道口
j本坂通(姫街道)安間起点の先の安新町信号交差点を右折して100mほど進むと、左手に曹洞宗の松龍山普伝院がある。
普伝院は、安間稲荷として親しまれ、慶長元年(1596)現在の浜松市南区にある稲荷山龍泉寺から勧請して創建されたと言われている。境内には、商売繁盛に霊験あらたかな安間稲荷、延命地蔵とこの附近で戦った徳川と武田の戦死者を弔うために祀った千体仏を安置した地蔵堂がある。
街道に戻ると直ぐ先を国道1号線の高架が横切っている。
姫街道は、県道314号を北上する。
国道1号線の高架を抜けると、右手に了願公園がある。ここは安間村の庄屋であった安間家の屋敷跡である。
この辺りは安新町といい、安間新田の地名を短縮したものである。
間もなく県道65号(浜松環状線)に合流し、直ぐ先の柏木橋交差点で、再び県道314号を斜め左に進んで行く。

半僧坊里程石 常夜燈 法伝寺 八幡宮
先に進んで下石田中信号交差点を過ぎると、左手の排水路脇に半僧坊里程石が建っている。 半僧坊里程石から程なく、左手に秋葉常夜燈が建っている。 常夜燈から250~60mほど先の下石田北交差点を右折すると、左手に曹洞宗の東澤山法伝寺がある。
法伝寺は、鎌倉時代末期の開山とと言われ、御本尊は釈迦牟尼仏で戦国時代の永正5年(1508)に再興され、彩色した記録が残っている。境内には金比羅神社と思われる建屋があり、中には金比羅様の御札と厨子などが置かれている。
法伝寺の西側に隣接して下石田の八幡宮がある。八幡宮の創建年代は定かではないが、古社であり、天竜川の中洲に位置し、藤原氏の末裔武人がこの地に居を定め、開墾して守護神として八幡宮を奉斎したと伝えられている。
境内には、文政10年(1827)の常夜燈、秋葉山常夜燈鞘堂などがある。

庚申堂 新大橋 半僧坊道道標
街道に戻って150~60mほど先の信号を超えて右手の砂利道を入ると、左手に庚申堂があり、御堂の脇には、奥山半僧坊里程石と芭蕉句碑 「草臥て宿かるころや藤の花」 がある。
なお、信号のある十字路右手筋は、池田の渡しへの道(池田近道)であるが、500mほど先で消滅している。
街道に戻って進むと、左手のオートガレージエイティーズの脇に祠がある。
祠の中には、里程石とも思える石碑が二つ安置されているが、文字は確認できない。
祠を過ぎると程なく、安間川に架かる新大橋がある。新大橋の上流側には、平成21年3月竣工の新大橋側道橋が設置されている。
安間川は、浜松市東区豊町付近に源を発し、下流で天竜川に合流している。
新大橋を渡った先の枡形道の左手に、明治18年に建立された半僧坊道道標がある。
枡形道の右筋は笠井道であり、枡形の先は市野宿であるが、本陣跡も問屋場も現存せず、位置も
不詳である。

半僧坊里程石 市野宿解説 半僧坊里程石 熊野神社
枡形から50mほど先の右手筋角に半僧坊里程石と姫街道標柱が建っている。
半僧坊里程石には、奥山半僧坊五里十四町と刻まれている。
街道を先に進み、市野町交差点を渡ると右手の電柱脇に市野宿解説が建っている。
市野宿は江戸時代中頃まで大名や旗本の往来も多く、本坂通(姫街道)の宿場町として栄えた。宿場の名残は 「東宿」、「中宿」、「新丁」 などの小字名が残る。東西の枡形区画が見fられ、現在も西と東の枡形が残っている。
市野宿には本陣(斎藤本陣)が一ヶ所置かれていたが、現存しない。
直ぐ先の西の枡形の右角にある清水宅の庭先に、半僧坊里程石が庭石に同化して置かれている。
右左の文字は不明だが、中央には半僧坊五里十三町と刻まれているようである。
枡形道を抜けると、街道右手に熊野神社がある。熊野神社は、江戸時代には熊野三社大権現と称され、真言宗正福寺(現在は廃寺)もあった。
境内には、秋葉常夜燈、経塚に 「郷中」 と刻んだ自然石や、高さ約4mの花崗岩製の大きな宝篋印塔などがある。

長福寺 小池一里塚跡 小池神社 旧道口
暫く西に進み、右手の浜松テクノカレッジを過ぎたところで水路を渡り、そこからほぼ直角に右折して行くと、右手に黄檗宗の曽我山長福寺がある。
長福寺は、延宝4年(1676)独湛和尚の法子である天瑞和尚が開創した。門を入った右手に六地蔵尊が並び、本堂西側の墓地最奥部に、木綿栽培普及に功績のあった第二代住職北堂和尚の墓がある。
街道に戻ると、直ぐ左手に小池一里塚跡がある。塚などは残っておらず、民家の敷地の一角に石碑と解説版があるのみである。
この一里塚は織田信長が一里を36町と定め、街道の一里ごとに塚を築き、その上に榎または松を植えて目印としたのに始まり、その後、江戸時代に至って、更に整備され旅人の便としたものである。
ここは江戸日本橋から数えて65里目の一里塚跡である。
小池一里塚跡の先で、ほぼ直角に西に曲がると、右手筋の奥に小池神社がある。
小池神社の創建年代等は不詳であるが、拝殿に掛かる扁額には、正哉吾勝勝速日天忍穂耳命(まさやあがかちかつはやひあめのおしほみみのみこと)という祭神の外7祭神と合祀10祭神の名が記されている。
境内には、小池町屋台置場、小池君碑と記された顕彰碑などがある。
街道に戻って小池町交差点を渡ると五差路があり、県道261号は右に進むが、ほぼ直線上に旧道が西に向かっている。

大養院 江原橋 自動車学校前駅 半僧坊里程石
旧道に入ると直ぐ右手に臨済宗方広寺派の臨川山大養院がある。
大養院の創建年代等は不詳であるが、浜名湖新四国第31番札所の観音霊場となっており、門前には、秋葉山常夜燈鞘堂が建っている。
大養院の先で狢川(むじながわ)に架かる江原橋を渡っていく。狢川は、遠州鉄道に沿って流れており、下流で馬込川に合流している。
かつては、小魚やカニなどが生息する清流であったが、やがて来ると言われる東海大地震に備えてコンクリート堤防を構築すると、川は次第に汚れていったという。
江原橋の先から旧道が消滅しているため、狢川に沿って北上して県道261号に復帰する。
街道に復帰すると左手に遠州鉄道の自動車学校前駅があり、単線の踏切を渡っていく。
踏切を渡ると直ぐ右手に半僧坊里程石があり、四里廿六丁と刻まれている。

秋葉道道標 半僧坊里程石 姫街道標柱・里程石 半僧坊里程石
半僧坊里程石から100mほど先のT字路左手に秋葉道道標が建っている。
道標に刻まれた文字は判読できないが、傍らに木製の道標が建てられていおり、道標の向いの筋角に旧秋葉街道と記された標柱が植栽の中に建っている。
直ぐ先で有玉南町市場公会堂前を通り、その先で国道152号(飛龍街道)を渡ると、左手筋角に半僧坊里程石と石塔が建っている。
里程石には、半僧坊四里廿壱丁と刻まれている。
半僧坊里程石から150mほど先の左手に姫街道標柱・馬乗り場跡標柱があり、その手前の筋角に半僧坊里程石が建っている。
里程石の文字は良く見えないが、前の里程石から判断して四里廿丁と思われる。
姫街道標柱から100mほど先の左手ガードレール脇に四里十九町と刻まれた半僧坊里程石と小さな地蔵菩薩が建っている。
傍らには、半僧坊道と記された標柱が建っている。

五枚橋 旧道口 宇藤坂 旧家
半僧坊里程石の直ぐ先に馬込川に架かる五枚橋がある。かつては、この下流側50mほどに旧街道に続く旧五枚橋が架かっていた。
馬込川は、浜松市浜北区に源を発し、
途中、天竜川から引いた浜名用水と接続し、現在ではこの水が水源となっている。
五枚橋の渡詰め左手に旧道口がある。
突き当りに建っている赤い鉄塔当たりが、対岸から続いていた旧道となる。
鉄塔の先を西に進んで行くと宇藤坂の登り口となる。登っていくと県道261号の手前で階段となり、県道261号を渡って、更に上り坂が続く。
宇藤坂の北側には武田軍が攻め上がって来た大菩薩坂があり、この辺りは武田信玄と徳川家康が戦った三方原古戦場でもある。
宇藤坂を上り切ると、右手に焼き板壁の黒い大きな蔵がある旧家がある。

馬頭観音 伝馬町 最古の道標
先に進むと右手の孝明商事株式会社の庭先に、三面の馬頭観音が祠に安置されている。 続いて有玉西町欠下平公会堂を過ぎると、右手に秋葉山常夜燈鞘堂が建っている。 程なく左から回り込んできた県道261号に突き当たるが、この手前に天保3年(1832)の浜松市内最古の道標が建っている。
本日は、ここで終了し、最寄りの自動車学校前駅に出て浜松駅近くの宿に宿泊である。

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