永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで、今川義元が戦死した後、徳川家康の遠州侵攻を防ごうと、気賀の人々は、領主今川氏のために堀川城を造り、最後まで戦った。堀川城址は、ここから南へ600m程にある。
永禄12年(1569)3月27日、堀川城に2000人の男女が立てこもり、3000人の家康軍に攻められて、落城したといわれている。大久保彦左衛門の記録に
「男女共になで切りにした」 とある。
そしてその後に捕らえられた約700人の人々も、同年9月9日にこの付近で首を打たれた。そしてその首をこの小川に沿った土手にさらしたので 「ごくもんなわて」
と言われるようになった。
(細江町教育委員会)
獄門畷解説
堀川城将士最期之地碑