二の鳥居

赤砂利稲荷由緒

更に上に鎮座する奥社

拝殿に掛かる廣霊社の扁額

拝殿奥の赤砂利稲荷本殿

三の鳥居と四の鳥居

狛狐

狛狐

赤砂利稲荷拝殿

 鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて、この地は山伏の修験道場として大変栄えたt伝えられています。しかし、南北朝の争いの際、山伏は南朝方へついたため、南朝の滅亡とともに衰退していき、足利j時代には滅びてしまったそうです。村人達は山伏を偲び、この地に祠を建てて祀りました。
 文化14年には、長楽寺の取り次ぎで、正一位稲荷大明神となり大切に祀りましたが、あるとき大きな神社へ合併されてしまいました。
 明治の中頃、気賀の長の兄弟が病に臥して苦しんでいると、奥山方広寺の住職が霊夢を見たといい、急いで近くの金竜寺にやってきて、「半僧坊の天狗が、病の原因は稲荷神社を郷社境内へ合併したり、祭典を軽々しくしているためだと告げられた」 と言いました。
 それを聞いて地元の人々は、お稲荷様を大切にしようと相談し、有志が発起人となり気賀一郷に寄附を集めて神社を元の場所に再建し祀りました。
 いつしかこのお稲荷様に失せ物を願うと出てくると言われ、人々の信仰を集めるようになり、今日まで地元の人々に大切にされています。毎年3月中旬には例祭が催され多くの人で賑わいます。

眼下に気賀方向の姫街道が見える

南に浜名湖が見えている

みかん畑の斜面に参道が延びる

オレンジロードに上がる石段

赤砂利稲荷の一の鳥居