六地蔵尊

斜面下から見上げた地蔵堂

南無阿弥陀仏名号碑

姫地蔵と呼ばれる天和2年(1682)の地蔵菩薩立像

気賀近藤家と遠州表の由来碑

斜面に建つ地蔵堂

 井伊谷三人衆の一人近藤康用(やすもち)の子秀用は、元和5年(1619)井伊谷藩の領主となりました。その後、寛永8年(1631)領地を一族五人に分け与え、いわゆる五近藤家が成立しました。気賀近藤家は明治維新までの250年間、12代にわたって気賀を領地とし、気賀関所を治めていました。代々の領主は、江戸下谷池ノ端の称仰院か、中川の初山宝林寺に葬られています。ここは御下屋敷とか御所平と呼ばれ、分骨した代々の領主の墓が、気賀の領地を見下ろすこの場所に祀られました。
 享保15年(1730)家督を継いだ6代用随の墓石には、活民院殿と刻まれています。用随は宝永の大地震で塩水に浸かり米が作れなくなった荒田に、みずから七島藺草を植え領民を救った殿様として知られているのです。墓所の入口には、七島藺草伝来の由来を記し用随を讃える、細江町、細江町農業協同組合、静岡県藺製品商工業共同組合、静岡県藺業組合の石碑が建てられています。

用吉      用永      用随

用武      用和      用恒

用清      用由      用治

気賀近藤家墓所解説

切り絵