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姫街道   (西気賀~本坂峠口


平成31年4月20日(土)   ☁    西気賀~本坂峠口    12.0㎞
本日は、西気賀の岩根集落から先に進むこととなるが、この先は山沿いの道が多く、森の中を進む引佐峠や享保14年(1729)8代将軍吉宗に献上された象が江戸へ向かう途中通ったという 「象鳴き坂」 などがある。また三ケ日に入ると東名高速道路で分断された大里峠などもあり、変化に富んだ道筋である。

姫街道道標 旧道口 岩根地蔵 東屋・平岩
天竜浜名湖鉄道は早朝に小動物と接触して40分ほど遅れたが、午前8時40分には昨日終了した姫街道道標前に着いた。
ここから振り返ると、南に浜名湖が見えている。
道標から100mほど坂道を進むと、左手のミカン畑に向かって石畳の旧道が延びている。
石畳の入口には姫街道道標が建っており、石畳の道は直ぐに林の中に入っていく。
石畳を先に進むと左手の木々の間に赤色の物が立っており、一瞬ドキッとさせられる。
近いづいてみると赤い布をまとった 「岩根地蔵」 と呼ばれているお地蔵様である。
岩根地蔵の直ぐ先に東屋が建っている。
東屋の脇には平岩と呼ばれる表面積9×4mの巨大な岩があり、姫岩とも呼ばれている。
昔、お姫様の行列もここで休み、景色を楽しまれた言われている。

分岐 分岐 分岐 山道
東屋から150mほど進むとY字路があり、左下に進む道と右上の段を進む道があり、姫街道はここを右に進んでいく。
分岐の中央には、姫街道道標が建っている。
続いて40~50mほど先でY字路となり、ここでも姫街道は右に進んんでいく。
この分岐の中央にも、姫街道道標が建っている。この先は、木々が茂る林の中の道となるが、道路は舗装されている。
更に200mほど先で上下に分かれる分岐があり、ここでも姫街道は右に進んで行く。
分岐の上り口に姫街道道標があり、舗装された道は間もなく石畳に変わっていく。
林に中の石畳の道は、木々の葉で埋め尽くされ土道のような感じで歩きやすい。
緩やかにうねりながらの道は、次第に登っていくのが分かり、所々に姫街道道標が建っているのがありがたい。石畳の道は、やがて石が密に敷詰められた急勾配の道に変わる。

石段 道標 引佐峠 象鳴き坂
急勾配の石畳を抜けて目の前が明るくなると、急な石段が現れ、その先に東屋の屋根が見える。
石段を上がったところでオレンジロードの支線を横切ると、右手に東屋とトイレがあり、ここで暫し休憩する。
東屋の直ぐ先に三叉路があり、ここに姫街道道標のほか、引佐峠(オレンジロード)・尉ケ峰・浜名湖佐久米駅を示す道標が建っている。 道標の所から程なく引佐峠に到着する。
引佐峠は、標高200mで奥浜名湖自然歩道と交差しており、色々な方面への道標が建っている。また引佐峠案内、姫街道案内などが建っている。
引佐峠を越えると引き続き石畳の下り坂が続き、ややガレ場のような急傾斜の所に象鳴き坂の案内板が建っている。
享保14年(1729)8代将軍吉宗に献上された象が江戸へ向かう途中、ここの急傾斜に悲鳴を上げたので 「象鳴き坂」 と呼ばれた。

姫街道道標 石投げ岩 みかん畑 大谷一里塚跡
曲がりくねった山道を下り、やや平らになった辺りに姫街道道標が建っている。
この先で一瞬林を抜けて、再び平らな林の道が続く。
平らな石畳の道を進むと、右手から林道が合流し、その直ぐ先左手に石投げ岩がある。
岩には無数の小石が乗っており、引佐峠を登り下りする旅人が、この岩に石を投げて旅の無事を占い祈ったといわれる。
この付近は石垣が組まれた杉林となっており、夏でも涼しい快適な道である。
杉林を抜けて舗装路になると、目の前にみかん畑が一面に広がっている。 みかん畑の間を通る街道を先に進むと、左手のみかん畑の中に、大谷一里塚跡がある。
塚は残っていないが、一里塚址と刻まれた石碑が建っている。
ここは江戸日本橋から数えて70里目の一里塚跡である。

和田牧場 みかん畑の街道 大谷茶屋跡 六部様
大谷一里塚跡を過ぎて先に進むと、左手に和田牧場がある。
和田牧場は、昭和43年にホルスタイン2頭から始めた牧場で、現在は350頭ほどを飼育し、美味しい三ケ日牛を市場に届けているという。
和田牧場の先は、開けたみかん畑の斜面を横切る快適な街道が続いている。
みかん畑の景色に気を取られ、あやうく冬眠から覚めた蛇を踏むところだった。
先に進んで行くと右手に植栽がたくさんある民家(地図では万花園とある)があるが、この辺りに大谷の茶屋があったようである。
現在は説明板もなくはっきりしないが、往時はここにあった茶屋で姫様や一般の旅人も休憩していったことだろう。
先に進んでT字路を左に進み、その先の坂道を下ると、左手の林の前に六部様の看板が建っている。林の中の小高い丘上には、自然石で造られた祠があり、中に観音菩薩像が祀られている。
ここは明和4年(1767)、生き倒れとなった修行僧円心を祀ったところである。

県道合流 大谷橋 大谷代官屋敷跡 伊賀屋敷跡
六部様を過ぎて先に進むと、県道308号(鳳来三ケ日線)に突き当たり、街道は左折して行く。
合流地点には、姫街道道標と和田牧場への道標が建っている。
県道308号に入って間もなく、都築大谷川に架かる平成2年10月竣工の大谷橋がある。
都築大谷川は、ここより北方の三ケ日町大谷字地領に源を発し、下流で猪鼻湖に注いでいる延長3.7㎞程の河川である。
大谷橋の直ぐ先、右手に大谷代官屋敷跡の案内板が建つ民家がある。ここは江戸にいる領主大谷近藤家に代わって事実上領内を支配した大野家の屋敷で、現在も子孫が居住している。土地の人々は大野家を 「お代官様」、この屋敷を 「代官屋敷」 と呼んでいる。
街道沿いには姫街道道標、姫街道案内図が建っている。
大谷代官屋敷跡から100mほど先の、右手段上に案内板が建っている。
案内板は高いところにある上に文字は消えていて見えないが、ここは安形伊賀守屋敷跡であり、戦国時代、安形伊賀守馬正道が居住し、佐久城主浜名氏の重臣であった、永禄12年(1569)浜名氏の佐久城が徳川家康に攻められて落城すると、安形氏も滅亡した。

分岐 慈眼寺 駒場集落 東名高速道路
伊賀守屋敷跡から50~60mほど先にY字路があり、姫街道はここで県道308号と分かれて、右に進んで行く。
Y字路中央には、姫街道道標が建っている。
Y字路を右手に進んで間もなく、右手に曹洞宗の猿堂山慈眼寺がある。
本尊は十一面観世音菩薩で、浜名湖岸新四国八十八ヶ所霊場番外札所となっている。明治初年の大火で古い寺は焼失したが、後に佐久米の阿弥陀堂を購入し移築した。
境内には、歴代住職の卵塔、地蔵堂、秋葉山常夜燈鞘堂などがある。
慈眼寺を出ると、その先の街道には、槙の生垣が突き当りまで続いている。 槙の生垣の突き当りは、東名高速道路で分断されいるため、迂回路の案内図に従って右折して行く。
右折すると、直ぐ先で下り坂となり、右下にみかん畑が広がっている。

T字路 馬渡橋 仇討説明 旧道口
坂道を下りきったところでT字路に突き当り、左に進んで東名高速道路の高架下をくぐり抜けて行く。
突き当りには、姫街道道標が建っており、トンネルを抜けると水田が広がっている。
東名高速道路の高架を抜けて先に進むと、野時川に架かる昭和52年竣工の馬渡橋がある。
この辺りが、かつての姫街道が分断される前に、駒場集落から抜けていたところである。
橋の袂には御殿道解説が建っており、ここから南に分かれる一本道が、野地城址に続く道である。
馬渡橋から250~60mほど進むと、右手から下って来る道との合流地点に姫街道道標が建っており、仇討について記されている。
嘉永5年(1852)6月8日、この姫街道の南辺りの田の畔を、一人の男が刀を抜いて、「父の仇、覚悟しろ」 と叫んで男を負いかけた。この仇討で討たれたのは甲州の人で、伊三郎と名乗っていた山下弁之助という人であった。なお、仇討をした人の名は分かっていない。
仇討説明からみかん畑の道を100mほど進んで十字路を渡り、十字路の先から細くなった道を更に100mほど進むと、左斜めにみかん畑の中に延びる土道がある。これが旧姫街道であるが、その先で東名高速道路によって分断されている。
大里峠 大里橋 みかん畑の道 抱松橋
東名高速道路に沿った道を上っていくと、右手に大里峠の案内板が建っている。
案内板の右手から林に延びる道が、旧姫街道でその先に大里峠があるが、行き止まりとなっている。
大里峠案内板の直ぐ先で、東名高速道路に架かる大里橋を渡っていく。
大里橋の袂に東名高速道路によって分断された姫街道の案内板が建っている。
東名高速道路を越えると、しばらくみかん畑の中の道を下って行く。
所々に姫街道道標が建ち、みかん畑の下り坂の先に三ケ日町が見える。
先に進むと集落に入る手前に流れる宇志川に架かる抱松橋がある。
宇志川は、三ケ日町宇志の北方を走るオレンジロード付近に源を発し、下流で猪鼻湖に注いでいる。

瓦塔遺跡 耕地整備記念碑 茶屋跡・高札場跡 合流
抱松橋を渡った先の十字路右手に瓦塔(がとう)遺跡の看板が建っている。宇志瓦塔遺跡は、宇志川の源流付近にある遺跡である。
瓦塔とは瓦製の仏塔のことで、奈良より平安時代にかけて経済的理由などにより、木造の代わりに建立された瓦製の小塔をいう。瓦塔は全国的に見られたが、現在は東京都東村山とこの地のものとが発見された破片によって復元されている。
瓦塔遺跡看板のちょっと先に、昭和15年建立の耕地整備記念碑が建っている。 瓦塔遺跡看板の建つ十字路を渡り、民家の間の坂道を上って、その先で直ぐ下り坂となったところに茶屋跡と高札場跡とがある。
茶屋跡案内の下に片山竹茂墓とあったが、場所は茶屋跡の北側にある集落の墓地にある。片山竹茂は、宇志八幡宮の宮司で俳諧の指導者であった。
高札場前の細い下り坂は、直ぐ先で左から来るやや広い道と合流し、この合流地点右手には、姫街道道標が建っている。
合流地点を左に進むと、宇志八幡宮がある。宇志八幡宮には、雨乞いの儀式で使われた室町時代の能面が残っているという。

三ケ日一里塚跡 三ケ日宿碑 三ケ日宿並 釣橋川橋
左からの道と合流して500mほど進むと、三ヶ日町防災センターの火の見櫓の下に、三ケ日一里塚跡がある。ここには塚の遺構は無く、一里塚跡碑と説明板が建っているのみである
ここは江戸日本橋から数えて71里目の一里塚跡である。
三ケ日一里塚跡を過ぎると、右手の三ケ日郵便局の前に、三ケ日宿碑が建っている。 三ケ日宿碑から250mほど先のオレンジロードとの交差点付近には、小池本陣、脇本陣石川家、問屋場などがあり、三ケ日宿の中心地であった。
現在は遺構も案内板もなく、往時の面影は残っていないが、街道左手の鈴木歯科医院が本陣跡といわれる。
先に進んで国道301号を越えると、その先の釣橋川に架かる昭和39年(1964)3月竣工の釣橋川橋がある。
釣橋川は、北方の三ケ日町只木の山中に源を発し、橋下で宇利山川を合流して、猪鼻湖に注いでいる。

宇利山川橋 分岐 秋葉山常夜燈鞘堂 国道362号合流
続いて宇利山川に架かる昭和40年(1965)4月竣工の宇利山川橋を渡る。
宇利山川は、宇利峠の山中に源を発し、橋下で隣の釣橋川に合流している。
宇利山川橋と釣橋川橋の間には、姫街道道標が建っている。
二つの橋を渡って先に進み、右手の浜名教会を過ぎるとY字路があり、中央に 「←本坂・平山→」 の道路標識が建っている。
左に進むと、右手のみかん畑の前に姫街道道標が建っている。
先に進み、三ケ日みかん流通センターを過ぎると、右手の段上に秋葉山常夜燈鞘堂建っている。
この鞘堂は明治14年(1881)の棟札があり、中の石燈籠は大正5年(1916) 2月建立の刻字がある。
秋葉山常夜燈鞘堂の先の緩やかな下り坂の道を進むと、国道362号線に合流する。
この先は、暫く、車の往来のある国道を通ることとなる。

山論犠牲者供養塔 板築山登山道入口 秋葉山常夜燈鞘堂 華蔵寺
国道362号を340~50mほど進んだ右手筋を、更に130~40mほど登ると、右手段上に日比沢の共同墓地があり、ここに寛永19年(1642)に建てられた山論犠牲者供養塔がある。
本坂山のもめ事で、本坂村と日比沢村の庄屋が三ケ日村を幕府に起訴(おっそ)し、訴えは認められたが、越訴の罪で家族全員が打ち首となったものである。
傍らには、「忍びつつ常盤に伝えん我が祖先」と刻まれた石碑が建っている。
街道に戻ると直ぐ左手の筋角に、板築山(ほうづきやま)登山道入口の道標が建っている。
板築山は、猪鼻湖の横にある標高226mの三角形の山で、ハイキングに適した山である。
先に進むと右手の日比沢集落センターの前に、秋葉山常夜燈鞘堂が建っている。
鞘堂には、木製の秋葉山常夜燈が納められている。
秋葉山常夜燈鞘堂から250mほど先の右手に、曹洞宗の清浄山華蔵寺がある。
華蔵寺は、元々は真言宗の寺院だったが、戦国時代に衰微したのを金剛寺四世明岩修哲和尚が再興し、曹洞宗金剛寺末寺となった。
境内には、25年毎に御開帳となる大日堂や十王堂などがあり、墓地には文政3年(1820)の三界万霊塔や五輪塔・歴代住職の卵塔などがある。

板築駅跡 旧道口 森川橋 旧道口
街道に戻って進むと、街道が右カーブとなる左手に板築(ほおづき)駅跡がある。
板築駅は、古東海道の駅家で、海側を通っていた道が天長10年(833)の大地震で崩壊し、承和10年(843)に復興するまでの間、10年あまり存在していた。
また平安時代の承和9年(842)橘逸勢は謀反によって流罪となり、板築駅にて死去したといわれている。
板築駅跡から50~60mほど先の右手に、旧道口の坂道がある。
かつての古道は板築駅跡付近から北側を抜けてこの旧道口の上に抜けていたという。この旧道は、国道362号の北側を通り、200mほど先で、再び国道362号に合流する。
国道362号に合流して先に進むと、日比沢川に架かる昭和54年(1979)3月竣功の森川橋がある。日比沢川は、愛知県と静岡県との境に当たる山中に源を発し、途中、西山田川、東山川、南川を合流し、下流で猪鼻湖に注いでいる。 森川橋を渡ると、50~60mほど先の右手に坂道の旧道口がある。
この旧道口には、姫街道道標が建っている。

本坂一里塚跡 旧道口 本坂関所跡 橘神社
舗装された坂道を上って行くと正面に本坂一里塚跡がある。街道はここを左に進んで行くが、この旧道は230mほど先で、再び国道362号に合流する。
北側の塚は現存し、南側の塚は大正4年(1915)に本坂隧道開設のため崩され、現在のものは復元である。北側の塚の脇には、馬頭観音が祀られており、ここは江戸日本橋から数えて72里目の一里塚跡である。
国道362号に合流して先に進むと、横断歩道の左手から集落に入っていく旧道がある。 旧道を進むと左手にはみかん畑が広がり、立派な旧家などもあり、旧街道の面影を偲ばせている。途中には、本坂道の案内板があり、その先の民家前に本坂関所跡がある。
本坂には戦国時代から関所が置かれていたが、寛永元年(1624)気賀関所が置かれると、この関所は廃止された。
本坂関所跡の先を右折して国道362号に出ると、道路に面して橘神社がある。
橘神社は平安時代の官吏で日本三筆の一人として著名な橘逸勢(たちばなはやなり)を祀った神社である。橘逸勢は承和9年(842)謀反の嫌疑で伊豆に配流の途次、板築(ほうづき)駅で病没した。
境内には、橘逸勢を祀る祠、橘逸勢の墓、逸勢の一人娘妙仲尼の孝行を讃えた旌孝碑などがある。

高札場跡 茶屋本陣跡 太月寺 国道362号合流
街道に戻って進むと、右手に秋葉山常夜燈鞘堂と高札場跡がある。
高札場跡には、高札が立てられていた土台の石垣が残っており、隣の鞘堂には、文化4年(1807)の常夜燈が納められている。
高札場跡の向いのみかん畑の間の筋を120~30mほど入ると、右手に長屋門の家がある。
この民家は、本坂の茶屋本陣(庄屋梅藤清左衛門家)であったが、現在、案内板などは建っていない。
本陣跡から更にみかん畑の間を南に進むと、曹洞宗の日輪山太月寺がある。
太月寺の創建年代等は不詳であるが、本尊は阿弥陀如来で、浜名湖岸新四国八十八ヶ所霊場第84番札所となっており、境内には十王堂がある。
街道に戻って先に進むとY字路があり、街道は右手の坂道を上って国道362号に合流する。
上り口には姫街道道標があり、左手斜面には一面のみかん畑が広がっている。
合流する手前のガードレールにも姫街道の標示がある。

旧道跡 本坂峠登り口 三ケ日駅
国道362号に合流して間もなく、右手に旧道跡がある。
この旧道跡は、80mほどで国道362号に合流する。途中、湾曲したところに赤い弘法堂があり、中に二体の弘法大師像が祀られている。
旧道跡を抜けて間もなく、右手に本坂峠への登り口がある。ここには奥浜名湖自然歩道案内板、姫街道案内図が設置されている。
今回はここで終了し、タクシーで三ケ日駅まで戻り帰宅の途に就いた。
三ケ日駅は、国の登録有形文化財となっており、木造平屋建、寄棟造、厚型ストレート葺の本屋が北面し、正面右寄りには玄関が突き出ている。
駅舎の建設は昭和11年4月で、現在、車両の乗降をスムーズにするため、プラットホームは2段嵩上げされている。

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