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東海道   (府中~岡部)


平成28年5月2日(月) ☀  府中~岡部  15.2㎞
前日に静岡に入り、今朝は6時ちょうどに宿を出発した。前回は札之辻跡で終了したため、ここからは安倍川を渡り、丸子(まりこ)宿を丸子川に沿って進み、宇津ノ谷峠を越えて岡部宿に入って行く。今回は、日本全国の石碑を追っている友人と一緒の旅である。

札之辻址 別雷神社 教覚寺 七間町解説
呉服町通りと七間町通りの交差する角の伊勢丹の前に札之辻址がある。
札之辻町の町名は、江戸時代、ここに高札場があったことに由来する。元禄5年(1692)の駿府町数幷家数人数覚帳によると、札之辻町の家数は11軒、人数132人であったという。
七間町信号交差点で昭和通りを横断し、直ぐ左の路地を入ると別雷(わけいかづち)神社がある。
別雷神社は、京都の賀茂別雷神社の分社という由緒ある神社で、足利氏、今川氏、武田氏、豊臣氏、徳川氏など武将の崇敬が厚かったといわれている。祭神は別雷神と玉依姫命である。
別雷神社の直ぐ先に浄土真宗本願寺派の松江山教覚寺がある。早朝で山門は閉じられていたが、一角に常慶町碑が建っており、教覚寺は親鸞聖人に帰依した光信房が、文暦元年(1234)自宅を転じて一寺を建立したのが始まりと云う。その後、元和2年(1616)徳川家康の家臣松下常慶の屋敷を譲り受け、この地に移転したという。 教覚寺から七間町通りに出ると、街道が直角に右折する角に七間町解説がある。
町名の由来は、絹・米・油等の 「座」 が7軒、道路の巾が七間、秤屋が7軒と諸説がある。札之辻から寺町三丁目(現駒形通り1丁目) にあった若竹座という芝居小屋までの間の七間町通りが、明治初期から昭和15年1月の静岡大火までは静岡一の賑わいであったといいう。

津島神社 善然寺 感應寺 長善寺
七間町解説から右折して人宿町通りを越え、新通りの十字路を右折すると車庫の二階に津島神社がある。
この津島神社は、天明5年(1785)の創建で、当時、浅間山の噴火をきっかけに大凶作、疫病が流行り、厄除けの神として須佐之男命を勧請したと言われている。
津島神社の先の駿河町通りを右に入ると左手に浄土宗の二尊山引接院善然寺がある。
顯蓮社増誉上人善然大和尚により、大永2年(1522)に創建されたと言われる。
善然寺と反対方向の駿河町通りを左に入ると日蓮宗の常住山感應寺がある。感應寺は、もと感應山瀧泉寺と称し、仁寿2年(852)富士市瀧戸に開創された天台宗の寺院であったが、日蓮上人の高弟日向上人ににより建治2年(1276)日蓮宗に改宗した。境内には徳川家康の側室お万の方ゆかりの放生池、浄行菩薩がある。 感應寺を過ぎて次の交差点を右折して本通り(県道208号線)を渡ると左手に時宗の寶池山一華堂長善寺がある。長善寺は、正和2年(1313)の開創と云われ、永正10年(1513)北条雲三浦導寸との合戦のために総本山清浄光寺焼失により、暫時本山となったことがある。第12世乗阿上人は連歌に秀で、「いつはあれど色なきものの身にしむは あやしき秋の夕べなりけり」 と詠んで一華堂の名を下賜されている。

弘願寺 浄国寺 府中一里塚跡 秋葉神社
長善寺に隣接して浄土宗の機教山光照院弘願寺がある。
創建年代等は不詳であるが、境内には六十六部供養塔・馬頭観音が植栽の中に佇んでいる。
弘願寺と路地を隔てた先に浄土宗の古今山浄国寺がある。
浄国寺は、文禄2年(1593)観誉忍察上人による開祖と言われる。
ご本尊は阿弥陀如来で、境内には地蔵堂があり、2基の地蔵尊のほか如意輪観音が安置されている。
長善寺・弘願寺・浄国寺ともに街道から一本通りを跨いだところにあったが、一里塚跡も新通りにある。ここには一里塚址碑と一里塚解説が建っており、解説は半分消えかけているが、「一里塚は市内長沼、本通8丁目、丸子、宇津ノ谷の4か所に設置されたが、いずれも現形ををとどめていない。本通りの一里塚はその位置を変え、ここに移動してきたものである」 と確認できる。ここは江戸日本橋から数えて45里目の一里塚である。 一里塚跡から街道(新通り)に戻ると十字路角の車庫の二階に秋葉神社がある。

駿河伏見稲荷神社 法栄寺 伏見稲荷神社 由比正雪公墓址碑
秋葉神社の直ぐ先の静岡銀行新通支店の向かいに駿河伏見稲荷神社がある。
由緒など不詳であるが、鳥居の奥に拝殿があり、その左脇に境内社と思われる社殿がある。本殿は拝殿の裏の覆屋の中に祀られている。
駿河伏見稲荷神社の先の十字路を左に入ると日蓮宗の円立山法栄寺がある。
法栄寺は、貞享元年(1684)一如院日還が開創した寺と言われている。
境内には、東京の谷中で発掘された唐渡来の出世大黒天、浄行菩薩、最上位妙法天王堂などがある。
街道に出て2つ目の十字路(しあわせ通り)を左に進むと右手に稲荷神社がある。
境内には、静岡雙街紀念之碑が建っている。雙街とは、二丁の町という意味で、駿河の花街として知られた 「二丁町遊廓」 のことである。元々七丁有ったが、元和元年(1615)に五丁を江戸吉原に移し、残ったのが二丁だから二丁町になったという。
街道を進んで県道208号線に合流する手前の弥勒緑地の中に由比正雪公之墓址碑がある。
軍学者として名高かった由井正雪は、慶安4年(1651)静岡市内梅ヶ崎の旅籠で捕り方に包囲され自刃した。
弥勒緑地には、安倍川架橋の顛末を刻んだ安倍川架橋の碑、明治天皇御小休所址碑が建っている。

石部屋 安倍川の義夫の碑 興禅寺 安倍川橋
安倍川橋の手前に文化元年(1804)創業の安倍川餅の老舗 「石部屋」 がある。
安倍川の茶店が 「きな粉」 を 「砂金」 に見立てて餅にまぶし、「安倍川の金粉餅」 として、徳川家康に献上したことが始まりと言われている。
石部屋の隣に安倍川の義夫の碑がある。この碑は、正直な川越人夫の顕彰碑である。
元文3年(1738)紀州の旅人が安倍川を勝手に渡った際、財布を落とし、たまたま近くにいた人夫の喜兵衛が追いかけて財布を返した。旅人は礼金を渡そうとしたが喜兵衛は受け取らず、奉行所に礼金を届けた。奉行所が礼金を喜兵衛に渡そうとしたが受取らないので、礼金は旅人に返し、代わりに奉行から褒美の金を喜兵衛に渡したという。
安倍川の土手の手前を左に入って行くと臨済宗妙心寺派の法遍山興禅寺がある。
興禅寺は、徳川家康の修学の師でもあった太原和尚を開山に請して、天正11年(1583)俊岳和尚が創建した。
安倍川に架かる安倍川橋を渡って行く。
安倍川は、甲斐と駿河の境にある大谷嶺・八絋嶺・安倍峠に源を発し、駿河灘に注いでいる。
安倍川橋は全長491mである。

妙音寺 心光院 少将井神社 高林寺
安倍川橋を渡ると右手の小山に日蓮宗の照永山妙音寺がある。
ここは標高約50mの金山砦跡で、室町時代初期に今川氏と対峙した狩野氏が築いた出城があったところである。妙音寺は、日蓮上人直参の高弟日禅上人による開山で、元徳2年(1330)北畠顕家(北畠親房の長子)によって開創された。
街道に戻って寺本畳店の先の路地を右に入ると臨済宗妙心寺派の瑞岩山心光院がある。
心光院は、元禄2年(1689)大龍恵入和尚を開山とし、 森又兵衛氏を開基とする。
境内には子育地蔵尊、観音菩薩があり、きれいな砂を敷き詰めた庭園がある。
心光院へ行く途中左の路地を入ると少将井神社がある。
少将井神社は、建久4年(1193)の創建で、手越の産土神として尊崇され、曽我物語にある工藤祐経の遊君少将君の名と共に往昔東海道を往来する旅人にもその名を知られた。
境内には、元暦元年(1184)一ノ谷の戦で源氏軍に大敗し、鎌倉に護送された平重衡の身の回りの世話をした千手の前の像がある。
街道に戻ると直ぐ左手に臨済宗妙心寺派の御霊山高林寺がある。
武田信玄の父信虎から数えて四代目の松井五郎八の長男八十郎は13歳の時落馬して亡くなり、時の天皇の夢に現れ、手越村の守護神になると語ったという。このため朝廷は八十郎に二位御霊大明神の神号を与え、社殿を建立したという。八十郎の祖父にあたる松井惣左衛門正近は、社殿の脇に庵を建て、後に御霊大明神の別当となったのが高林寺の始まりと云われる。

子捨橋地蔵 東林寺 名残ケヤキ 泉秀寺
高林寺前の信号T字路を右(西)に入って行くと東林寺寺標の向かいに地蔵堂がある。
この地蔵堂には子捨橋地蔵と呼ばれる地蔵尊が安置されている。その昔、この地の殿様が留守中に、その奥方が身籠り、召使を責めたところ、手を当てて護ったという。月が満ちて生まれてきたのは手だけであった。殿様はその手を町屋川の橋の下に捨てた。後に旅の僧が橋の傍らに祀り、供養したのがこの地蔵尊だと言われている。
子捨橋地蔵の先を進んで行くと曹洞宗の金剛山東林寺がある。
東林寺は、延宝年間(1673-81)北条氏の御殿医を代々勤めた三浦氏の子孫の七代目三浦三郎が開基となり、向敷地の徳願寺12世賢巌太佐和尚を招き開山とした。また三浦三郎藤原光義が、戦国時代の最中に家伝の灸術を近隣の人々に施し、その名声は近郊に伝わり手越の名灸と称えられ、歴代住職が灸術を伝承している。
街道に戻って進むと手越原バス停のところに街道名残のケヤキが道にせり出して立っている。 名残ケヤキの先の路地を右に入ると曹洞宗の小森山泉秀寺がある。
泉秀寺は、寛正6年(1465)静岡市沓谷にある長源院の覚山見知和尚による開創と云われている。
境内には、駿河一国百地蔵尊第七番の延命地蔵尊が祀られている。

名残松 白髭神社 西宮神社 子授地蔵尊
街道を進むと右手のラウンドワン駿河店の向かいに街道の名残松がある。 名残松の手前を左に入ると白髭神社がある。解説板もなく創建年代等は不詳である。 手越原信号交差点で国道1号線に合流し、その先の佐渡信号交差点の右手の小山に西宮神社がある。
この小山は佐渡山古墳群があったところだが、国道1号線の拡幅に伴い削平されて消滅している。登り口には庚申塔が2基建っている。
佐渡信号交差点から旧街道に戻ると直ぐ右手に子授地蔵尊の地蔵堂がある。
その昔、子供に恵まれない夫婦がこの地蔵堂の地蔵尊を一体借りて信仰すれば子供が授かると言われていた。めでたく子供が授かった人は新しい地蔵尊を一体造りお礼参りをしたため、地蔵堂には沢山の地蔵尊が祀られている。

手児万葉歌碑 名残松 名残松 ようこそ丸子路へ
地蔵堂の向かいに 「さわたりの手児万葉歌碑」 が建っている。
この歌碑は、我が国最古の歌集 「万葉集」 に収められ東国農民に愛唱された歌謡である。
「佐渡」 はその頃からこの辺りの地名で、その歴史は誠に古いが、昭和52年 「丸子一丁目」と改称されたため、哀惜の念を込めて地元町民が昭和57年に建立したものである。
街道を進むと左手の三ちゃん食堂の前に旧街道の名残松が立ってる。 続いて小豆川に架かる佐渡橋を渡った先に旧街道の名残松が立っている。
かつては手越から丸子宿入口まで松並木が続いており、この場所は 「大曲」 と呼ばれ、道の両端には松を植える土手が築かれ、土手には笹が生えていたという。戦後までは、人家も明かりもなく、夜になると 「オバケ」 「オイハギ」 が出没すると噂されるほど淋しい場所であった。
静岡市立長田西小学校の先のY字路中央に長田西自治会連合会の造った 「ようこそ丸子路へ」 の看板が建っている。
脇には東海道道標 「丸子宿 東木戸まで230m」 が建っている。

丸子の一里塚跡 丸子宿江戸方見附跡 水神社 馬頭観音
東海道道標から程なく歩道上に一里塚跡があり、大正14年(1925)の標石には 「一りづかあと」 と刻まれている。
ここはここは江戸日本橋から数えて46里目の一里塚である。この場所の塚本さん宅の屋号は、「一里山」 と呼ばれていた。次の一里塚は逆川入口付近にあったと言われているが、道路改修のため消滅した。
一里塚跡から程なく右手民家前に丸子宿江戸方見附跡がある。
丸子宿に到着である。この向かいに長田西自治会連合会の作った丸子宿案内板が建っている。丸子宿は日本橋から20番目の宿場であり、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠屋24軒、宿内家数は211軒、人口は795人の東海道の中では小さな宿場であった。
街道が左手を流れる丸子川に近づいたところに水神社がある。
水神社の下には東海道・丸子宿の解説碑が建っている。丸子宿は文治5年(1189)源頼朝が奥州平定の功績により、手越平太家継という駿河の武士に丸子一帯を与えて駅家を設けたのが起源と言われている。今の元宿といわれる辺りで、戦国時代には今川家に仕えた連歌師宗長も 「丸子という里、家五、六十軒、京鎌倉の旅宿なるべし」 と記している。
水神社隣の民家脇に御堂があり、中に3基の馬頭観音が安置されている。左にあるものは文政と確認できる。

しらい酒店 丸子宿脇本陣跡 問屋場跡 宿並み
馬頭観音を過ぎると左手に明治40年(1907)創業のしらい酒店がある。その昔は、瓦職人で駿府城築城に従事したという。
壁には、純米吟醸酒 「鞠子の宿」 が貼られ、ガラス戸には、「志太泉」、「正雪」、「髙町」 などの地酒銘柄が書かれている。
街道を進んで 「かじ屋」、「油屋」 の屋号の家を過ぎると、左手に丸子宿脇本陣跡がある。
ここには明治天皇御小休所阯碑が建っている。
脇本陣跡の斜向かいの民家の塀に丸子宿問屋場跡の立札が建っている。 丸子宿には屋号の貼られた家もあるが、こうした格子の見事な旧家も街道の面影を偲ばせてくれている。

丸子宿本陣跡 丸子宿脇本陣跡 お七里役所跡 丁子屋
問屋場から程なく右手に丸子宿本陣跡があり、平成4年に建てられた標柱がある。
ここには長田西自治会連合会の解説があるが、消えていて全く判読できないが、標柱に解説が刻まれている。
丸子宿が東海道伝馬制の制定によって宿場町に定められたのは、関ヶ原の戦の翌慶長6年(1601)である。江戸から数えて20番目の宿場町で、江戸期の宿場戸数は2百戸余りであった。
澤続いて屋号 「奈良屋」 の先に丸子宿脇本陣跡がある。
ここには明治天皇御小休所阯碑が建っている。
街道左の入山輝茶店の斜向かいの民家前にお七里役所跡がある。
お七里役所とは、紀州家が重要書類の送信のために、七里ごとに置いた飛脚の継立所(飛脚小屋)のことである。紀州家は、江戸~和歌山間(146里・約584km)に役所を23ヶ所設け、江戸勤番の仲間(下級武士)の中から、体格も良く才能の優れた者を2人ずつ選び配置した。
標柱の後ろの民家に入山輝茶店の主が描いた丸子宿の絵図が掲げられている。
丸子橋の手前に茅葺屋根の丁子屋(とろろ汁の元祖)がある。
慶長元年(1596)丸子宿の茶屋として丁子屋平吉が丁子屋を開いた時から、現在の当主13代目・柴山馨さんまで伝統の味が受け継がれているという。この一角には、芭蕉句碑 「梅わかな丸子の宿のとろろ汁」、十辺舎一句の碑 「けんくはする夫婦は口をとがらして鳶とろろにすべりこそすれ」 などがある。

細川幽斎歌碑 柴屋寺道標 いさり地蔵尊 丸子橋
丁子屋の前の丸子橋の右手に、天正18年(1590)秀吉の小田原攻めの先陣として丸子川を渡った細川幽斎の詠んだ歌碑がある。
碑には、「人数には たれをするかの 丸子川 けわたす波は 音はかりして」 と刻まれている。
細川幽斎歌碑の向かいの建物前に道標が建っている。
正面に 「従是三丁余 柴屋」、側面に 「連歌師宗」 と刻まれている。
これは明和元年(1764)に建てられた天柱山吐月峰柴屋寺への道標であり、傍らには馬頭観音を安置した祠が有る。
道標の右手の路地に 「いさり地蔵尊」 の看板があり、路地を下って行くと左手の一丁目公民館の前に地蔵堂がある。
地蔵堂には、駿河一国百地蔵尊第十三番と表示があり、中に文政2年(1819)の地蔵尊が祀られている。
丁子屋の前で丸子川に架かる丸子橋を渡って行く。橋の左手には東海道道標、東海道案内碑が建っている。

丸子元宿高札緑地 修験道修行記念供養塔 天白大明神 丸子川
丸子橋を渡ると渡り詰め右手に丸子元宿高札緑地がある。
ここは丸子宿の京方西見附跡であり、高札場跡でもある。
西見附跡を過ぎると目の前に山が迫ってくるが、街道左手には大峯修行三十有三度と刻まれた修験道修行記念の供養塔が建っている。大峯とは、修験道の開祖役行者が修行した金峰山で、験道修行の本場となっているところである。 供養塔の一本先の路地を左に入ると元宿公民館の奥に天白大明神がある。
境内には昭和55年(1980)の庚申塔、赤く塗られた庚申塔、石祠がある。
街道が左にカーブすると丸子川の脇を通る道になる。この先の左手の山に向かう道に大日如来登口道標が建っている。

観音堂 大鈩橋 地蔵堂 誓願寺
街道が国道1号線に突き当たるところに観音堂がある。
境内には庚申塔が2基並んでおり、御堂の隣には二軒屋公民館が建っている。
街道をちょっと寄り道して大鈩(おおだたら)橋を渡って、その先の誓願寺へ寄ることとした。橋を渡ると丸子路の案内があり、大鈩不動尊の常夜燈、庚申塔がある。
大鈩不動尊は大鈩川の上流にあり、300体以上の地蔵尊が並ぶ滝の上に不動明王堂と丸子城で武田信玄の守り本尊となっていた愛宕山大権現のお堂がある。
大鈩川に沿って進むと川縁に地蔵堂がある。地蔵度には木彫りの地蔵菩薩が安置されている。
地蔵堂と川を挟んだ向かいには、子育水子地蔵尊が建ってる。
地蔵堂の先に臨済宗妙心寺の大鈩山誓願寺がある。
誓願寺は、建久年間(1190-99)に源頼朝の両親追善のために建立されたが、天文年間(1532-55)に戦火で類焼し、永禄11年(1568)駿府へ進出した武田信玄がこれを惜しんで再建した。またこの寺は、大坂冬の陣を起したいきさつの舞台となったところで、境内には、方広寺の鐘に刻まれた国家安康の文字について徳川家康に申し開きをした片桐且元の墓がある。

紅茶発祥の地 丸子紅茶 起樹天満宮 長源寺
街道に戻って進むと国道1号線の赤目ヶ谷信号の左の旧道口に 「紅茶発祥の地」、「赤目ヶ谷起木天満宮」 と書かれた看板が建っている。 紅茶発祥の地看板から程なく左手に水車の回る丸子紅茶がある。
建物には 「日本の紅茶発祥の地丸子紅茶」 の看板が掛かっている。
街道を進むと左手の長源寺の脇奥に起樹天満宮がある。
境内には、明治9年(1876)日本政府からインドに派遣され、紅茶の製造技術を持ち帰り全国に広めた多田元吉の碑、日本紅茶の原木などがある。
起樹天満宮の隣に臨済宗妙心寺派の霊泉山長源寺がある。
長源寺は、寛保元年(1741)宝台院の末寺として創建された。境内には、多田元吉の墓がある。
元幕臣の多田元吉は中国やインドに派遣され、紅茶製造技術を持ち帰り全国に広めた。

旧道口 国道1号線歩道 交通安全宝塔 道標
長源寺の先で国道1号線に架かる横断歩道橋を渡ると旧道口がある。
ここには横断歩道橋より高い聖観音が建っている。
旧道は直ぐに国道1号線に突き当たり、丸子川に沿った歩道を進んで行く。 国道1号線の左手竹林の前に 「宝塔 世界之願 交通安全」 と刻まれた石塔が建っている。 交通安全宝塔の直ぐ先に 「道の駅」 があり、ここには宇津ノ谷峠越の道標や宇津ノ谷周辺案内が建っている。
宇津ノ谷峠には、天正8年(1581)豊臣秀吉が小田原征伐の時に大軍を通すために開拓した旧東海道、中世(700~1590)の 「宇津ノ山越え」、「蔦の細道」 と呼ばれる古道、明治時代に掘削された 「レンガのトンネル」 がある。ここから高い横断歩道橋を渡って旧東海道へ入って行く。

旧道口 宇津ノ谷 宇津ノ谷集落 慶龍寺
横断歩道橋を渡ると一気に旧街道の風情漂う景色になって行く。 街道を進むと間もなく宇津ノ谷分岐があり、左に進んで行く。
この分岐には宇津ノ谷案内板の他に東海道道標、明治のトンネル道標、長田西自治会連合会の案内などが建っている。
丸子川に架かる村中橋を渡ると妻籠宿を思わせる宇津ノ谷の集落が山裾へ続いている。
各戸には屋号が掛かっている。
壽べ屋と御羽織屋の間の路地を進んで行くと丸子川の先に曹洞宗の宇津山慶龍寺がある。
慶龍寺は、天正6年(1578)歓晶院第四世宗旭和尚が開いた寺で、鎮守として延命地蔵尊(弘法大師作)が祀られており、本尊は十一面観世音菩薩である。
境内には許六句碑 「十団子も小粒になりぬ秋の風」 がある。許六は森川氏彦根藩士で、蕉門十哲の一人である。

御羽織屋 急坂 宇津ノ谷峠登口 馬頭観音
天正18年(1590)豊臣秀吉が小田原の北条氏を攻める途中、宇津ノ谷に休息した際、ここ石川家の祖先が馬の沓を献上し、戦陣の勝利を示すような縁起のよい話をしたため、帰りに立ち寄って陣羽織を与えたという。 御羽織屋の先で一気に急坂となり、道も狭くなる。
途中には 「ほそみち」 という屋号の掛かる家もある。
急坂を上がって舗装路に出ると左手に宇津ノ谷峠登口がある。
ここには東海道道標、長田西自治会連合会の東海道宇津ノ谷峠越え標柱などが建っている。
登り始めて程なく左手に嘉永5年(1852)と大正時代の馬頭観音が建っている。

お弘法さん 宇津ノ谷集落 雁山の墓 地蔵堂跡の石垣
竹林の街道を過ぎると右手斜面を10mほど上ったところに 「お弘法さん」 と呼ばれる石塔が祠に安置されており、祠の前には苔むした手水石がある。 街道に戻ると左手に宇津ノ谷集落を覗くことの出来る場所がある。
ここからの眺めは昔も今も変わりなく、山間の集落の景観は当時を彷彿とさせてくれる。
街道を進むと丸太の階段の手前に雁山の墓と解説がある。
俳人雁山は、山口素堂に俳諧を学び、甲府と駿河に庵を結んで自らの俳諧の地盤を固めた。享保12年(1727)頃旅に出て音信不通となったため、駿河の文人たちが、旅先で没したものと思い、ここに墓碑を建立したと伝えられている。雁山はその後、「有渡日記」や「駿河百韻」等を著し、明和4年(1767)甲府において82歳で没している。
この石垣は、江戸時代中頃、宇津ノ谷峠の傾斜地に地蔵堂(石垣上)を構える際、平らな土地を確保するために組まれたものである。
石段は二段構えで総高約7m、最大幅約12mである。

地蔵堂跡 宇津ノ谷峠 旧街道下り口 道標
急坂を上って行くと右手に地蔵堂跡の空き地がある。
ここは延命地蔵堂があったところで、礎石が散乱し、わずかに往時を偲ばせている。
現在、延命地蔵尊は、宇津ノ谷の慶龍寺に安置されている。
地蔵堂跡を過ぎると間もなく標高210mの宇津ノ谷峠に出る。 峠を過ぎると程なく舗装道路に出る。ここには旧東海道登り口の標柱が建っている。
かつて、宇津ノ谷トンネルの管理道が出来る前までは、写真の柵の手前辺りに道があったという。
舗装道路が右に旧カーブするところで、左に進む旧街道の砂利道がある。
ここには坂下への道標が建っている。

鬚題目碑 蘿径記碑跡 舗装路合流 坂下地蔵堂
竹林に囲まれた砂利道を下って行くと左手段上に鬚題目碑が建っている。
碑の正面には 「南無妙法蓮華経」 の題目が鬚のように刎ねて書く書体で刻まれ、側面には「為人馬安全」、「天下泰平五穀成就」 と刻まれている。
更に下って行くと右手斜面に蘿径記(らけいき)碑跡がある。
蘿径記碑は、文政13年(1830)有名な儒学者でもあった駿府代官の羽倉外記(簡堂)が、蔦の細道の消滅を恐れ、末永く残すために建立した石碑である。「蘿」 は蔦を、「径」 は小路を意味し、現在、坂下地蔵堂の裏に安置されている。
蘿径記碑跡から程なく舗装路に合流する。
ここには東海道道標、旧東海道案内などが建っている。
舗装路に合流すると直ぐ右手に坂下地蔵堂がある。
地蔵堂の地蔵尊は、鼻取地蔵とか稲刈地蔵と呼ばれ、駿河一国百地蔵尊第16番となっている。
地蔵堂の裏には、蘿径記碑が安置されている。

旧道口 名残松 岡部宿案内板 十石坂観音堂
坂下地蔵堂の先で 「つたの細道」 標柱を左に見て、その先で国道1号線の歩道を進み、廻沢口信号の横断歩道橋を渡ると旧道口がある。 街道を進むと右カーブの手前に街道の名残松が立っている。 街道を進んで岡部台入口バス停で左からの道と合流すると間もなく左手に岡部宿案内板がある。
ここから程なく岡部宿に入って行く。
岡部宿案内板の直ぐ先右手の段上に十石坂観音堂がある。名前の由来は、徳川氏によって十石の寺田が与えられたことによるという。
入母屋造の瓦ぶきの観音堂で内陣、外陣の境の格子は非常に細かい技巧が施されており、堂内には江戸時代末期の作といわれる二基の厨子が安置されている。
境内には、三界萬霊塔の脇に河野蓀園碑文がある。

枡形跡 小社 立光山不動尊 西住慕入口
岡部川に架かる高橋の前が枡形跡である。
街道は枡形の面影を残していないが、右手に小さな枡形の解説標柱が建っている。
また、ここは岡部宿の東木戸跡でもあり、ここには木戸と番小屋が設けられ、木戸番が毎日木戸を明六つに開け、暮六つに閉じていた。
枡形から程なく右手の山裾に小社と常夜燈がある。
小社の裏には、地蔵塔と庚申塔が半分埋もれて建っている。
小社の先で街道は岡部橋の手前を右に進むが、岡部橋を渡った左手の山に立光山不動尊がある。
立光山不動尊からはm岡部宿が一望できる。
岡部橋の手前から街道に戻ると右に笠懸の松と西住法師墓の入口がある。
民家裏から竹林の小路を登ると岩鼻山の中腹に笠懸けの松と小さな西住の墓がある。
西行法師が東国への旅の途中、弟子の西住法師が教えに反する行為をしたため、西住を破門して旅を続けた。破門された西住は己を悔やみながら師を追うが、体調を崩した西住は岡部宿の山道で笠に辞世句を書き、松に懸けて命を落とした。

三星寺 専称寺 大旅籠柏屋 岡部宿本陣跡
西住墓から下りて来ると右手に曹洞宗の三星寺がある。
創建年代等は不詳であるが、
境内には地蔵祠があり、本堂左脇には地蔵尊・如意輪観音・馬頭観音などが整然と安置されている。
三星寺の先で上流にあった橋と同じ名前の岡部橋を渡ると右手に浄土宗の功徳山専称寺がある。
専称寺は、文禄4年(1595)称蓮社専譽順賀和尚による開山である。寺宝に西行法師旅姿木像と鎌倉前期の不動尊立像がある。
街道に戻ると左手に大旅籠柏屋がある。
現在の建物は、天保7年(1836)に建てられたもので、5代目良吉以降は、旅館と質屋を兼業していた。
この建物は平成10年(1998)に国の登録有形文化財に指定されており、歴史資料館として公開されている。
大旅籠柏屋に隣接して岡部宿本陣跡がある。
この日は休館日で庭園内に入ることが出来なかったが、当時の井戸や14代将軍家茂が休憩したことにちなむ 「将軍稲荷」 が残っている。

初亀酒造 姿見の橋 佐護神社 高札場跡
本陣陣跡の直ぐ先右手に寛永12年(1635)創業の造り酒屋初亀酒造がある。 初亀酒造の前の信号交差点を左に進む旧道に入ると水路に架かる石橋がある。
この橋は、小野小町の姿見の橋と呼ばれている。
街道が右にカーブした先の左手山裾に佐護神社がある。
佐護神社は、立石神社例大祭の御神輿の御旅所の守護として古来から祀られている。 佐護神社は 「おしゃもっつぁん」 と呼ばれ、農耕の神、丈量(測量)の神、または安産の神であったりと様々な説がある。 社殿内は見ることは出来ないが、三つに仕切られており、中央に天照皇大神、右に佐護神社、左に秋葉さんが祀られている。
街道に戻ると右手弘法大師堂のところに高札場跡がある。
弘法大師堂は一見して御堂には見えないが、「弘法大師堂」 の表札が掛かっている。

正応院 中山家 柳沢稲荷神社 光泰寺
高札場跡の斜向かいに日蓮宗の見珠山正応院がある。
正応院は、創建年代等は不詳であるが、大正年間(1912-25)に開基政薩院日勇が、曹洞宗から日蓮宗に改宗したという。
境内には、昭和54年(1979)に完成した多宝塔、浄行菩薩などがある。
街道に戻って進むと村松商店の隣に立派な造りの家がある。
この家はサッカー選手で有名なゴン中山 (中山雅史氏) の実家である。中山家の向かいには、「サッカーロードおかべ」 の看板を掛けた手鞠工房がある。
街道左手の民家の間を抜けていくと山の中腹に柳沢稲荷神社がある。
柳沢稲荷神社は、寛政8年(1796)凶作による生活苦に喘ぐ地元民を救う思いで祀られた神社である。当初は字小柳沢にあったが、大正15年(1926)現在地に遷座した。
ここには拝殿傍にある石を抱いて拝めば、子宝に恵まれるという 「孕み石」 がある。
柳沢稲荷神社から下った先に曹洞宗の瑠璃山光泰寺がある。前身は十楽院という真言宗の寺院であるが、創建年代等は不詳である。
文禄年間(1592-96)に岡部町桂島の梅林院八世を退いた圓州舜光和尚が宗旨を曹洞宗とし、寺名を光泰寺としたと言われている。この寺には木喰上人の聖徳太子像と准胝観音像があり、境内には西国三十三観世音菩薩、洞窟の中に釈迦如来と通称「穴地蔵」、そして役行者が安置されている。

旅館「きくや」
光泰寺から5分ほどのところにある旅館きくやが本日の宿である。
きくやのおかみによると数年前に閉めようと思ったが、市からの要請もあり一日一組で細々と続けているという、街道ウォーカーには大変有難い宿である。食事は自宅の畑で採れた新鮮な野菜がメインである。

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