丸子下宿標札

東海道のご案内

 ここは東の見付を通り丸子宿に入ってきた所です。見付は、宿場の出入口にあり、往来を監視する機能をもっていました。
 現在、宿通りと呼ばれるこの通りに、往時を偲ばせるような建物は残っていませんが、本陣跡、脇本陣跡の碑や、格子戸の残る家、間口が狭く奥行の深い家並みなどから、丸子宿の様子を思い起こすことができます。
 天保14年(1843)の 「東海道宿村大概帳」 では、宿内町並東西7町、惣家数211軒、そのうち本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠24軒、人口795人、と記録されています。
 丸子宿には、お七里屋と呼ばれる紀州藩御用を務める機関もありました。

丸子宿概念模式図

水神社鳥居

覆屋に掛かる水神社の扁額

水神社覆屋

 この道筋は、江戸時代の東海道です。ここ丸子宿は文治5年(1189)、源頼朝が、奥州平定の功績により、手越平太家継という駿河の武士に丸子一帯を与えて駅家(えきけ)を設けたのが起源といわれています。今の元宿(もとしゅく)といわれる辺りです。戦国時代には今川家に仕えた連歌師宗長(そうちょう)も 「丸子という里、家5~60軒、京鎌倉の旅宿なるべし」 と記しています。
 江戸時代になり、徳川家康によって東海道の整備が行われると、丸子宿は品川宿から数えて20番目の宿場町に定められました。比較的小さな宿場町であったので、周囲の村々からも人足や馬を供給していました。これを助郷制度といいます。

覆屋の中の水神社社殿

丸子川