永正10年(1513)春、北条雲三浦道寸との合戦兵火の為に、総本山清浄光寺火災焼失依って遊行21代知連上人当寺に引き移り暫時本山と為す事あり
 当山第12世乗阿上人は、稀に歌道に長し連歌をよくし、細川幽斎と共に古今集の秘伝を三條西乾寶枝に受け、慶長10年(1605)、75歳の折、時の帝107代後陽成天皇の漢和御当座に列席の栄誉を賜る。同16年(1611)再び寂百首の御当座に召されて、

  「秋夕」
 いつはあれど色なきものの身にしむは あやしき秋の夕べなりけり

と詠み、類なしとの叡感を蒙り、一華堂の名を下賜さる。後、元和5年(1619)7月、89歳で没したが、その後、一華堂長善寺と号す。
 慶長7年(1602)徳川家康公より寺領寄付として有渡郡小鹿の内30石拝領す。
 東照神君秘蔵の 「藩州高砂尾上の鐘形茶の湯の釜」 を拝領。寺宝として現在に伝わる。
乗阿上人及び初代梅屋勘兵衛等の墓所在り。

一華堂長善寺由緒

尼子十勇士の武将の一人である。山中鹿之助の孫が遊行上人に連れられて一華堂浄源寺に入り、後に士福寺を譲り受け住職となる

慶長10年(1605)6月16日に参内して、後陽成天皇と漢和連句の座で連ねたという

「いつはあれど色なきものの身にしむは あやしき秋の夕べなりけり」 と詠んで一華堂の名を下賜された

南無阿弥陀仏碑

山中鹿之助幸盛の墓

昇殿俳人・一華堂乗阿上人の墓

一華堂碑

地蔵堂の子育地蔵尊

地蔵堂

歴代住職の墓

長善寺本堂

観音菩薩(脇士)・阿弥陀如来(本尊)・勢至菩薩(脇士)

本堂内陣