峠の地蔵堂は、東海道を往来する人々が道中の安全を祈り、また 「道しるべ」 の役割も果たしていました。地獄の入口で衆生(全ての生き物)を救おうという 「地蔵信仰」 は、江戸時代に庶民の間で盛んになりました。村境に地蔵を祀り、信仰することによって村や旅人を守る一つの形として、峠の地蔵信仰も流行します。
 宇津ノ谷峠には静岡市宇津ノ谷側に 「峠の地蔵」 、岡部町坂下に 「坂下地蔵(通称:鼻取地蔵)」 があります。「峠の地蔵堂」 も、明暦2年(1656)に狩野探幽による 「東海道地取図巻」 に描かれています。このことから江戸時代の初期には既に信仰されていたと考えられます。また、坂下の地蔵堂には寛文11年(1671)銘と元禄14年(1701)銘の石燈籠が奉納されていることから、両地蔵は共に江戸時代の初期には既に信仰されていたことが分かります。
 峠の地蔵は明治42年に慶龍寺へ移されました。

寛政10年(1798)の供養塔

峠の地蔵堂説明碑

地蔵堂絵図

 この奥の空地は、もと延命地蔵堂のあったところで、礎石が散乱し、わずかに往時を偲ばせている。
 江戸時代末期の歌舞伎脚本作家・河竹黙阿弥の作で、丸子宿と宇津ノ谷峠を舞台にした 「蔦紅葉宇都谷峠」 というお芝居がある。
 盲目の文弥は、姉が彼の将来を憂いて京で座頭の位を得させるために身売りして用立てた100両を持って京に上がる。文弥は、道中、護摩の灰、堤婆の仁三に目を付けられながら丸子宿にたどり着く。
 一方、伊丹屋十兵衛は、かつての主人の恩義で借りた100両の返済工面のため京の旧知を頼ったが目的を果たせず、失意のうちに江戸へ戻る途中、丸子に投宿する。
 丸子宿の旅籠藤屋にこの三人が同宿したことが、文弥の100両をめぐる凄惨な結末への始まりとなる。
 文弥の100両欲しさに十兵衛が宇津ノ谷峠で文弥を殺害してしまう芝居の山場、「文弥殺し」 の舞台がここ延命地蔵堂前である。
 延命地蔵尊は、現在宇津ノ谷の慶龍寺に祀られており、縁日は、毎年8月23・24日である。

地蔵堂跡説明

5m四方の礎石が残っている

東海道図屏風に描かれた地蔵堂