石造物は馬頭観音、地蔵尊、墓石などである
河野蓀園は、駿河町奉行服部久エ門貞勝が駿府地誌の編纂を山梨稲川(江戸時代の漢学者)に依頼したときに、岡部の属する益頭郡を担当した人である。
岡部本町に住し(屋号・河野屋)、文化12年(1815)1月18日46歳で没した。
蓀園の墓碑は、稲川の撰文と書が刻まれたものである。その撰文の要旨は、蓀園の資性と業績が立派であったことを顕彰したものである。
建碑については、蓀園の友人で岡部宿駅の漢学者・杉山佐十、本間春策等の友情によって立石されたものである。
(藤枝市教育委員会)
入母屋造りの瓦葺の観音堂で、内陣、外陣の境の格子は非常に細かい技巧が施されている。
江戸時代末期の作と思われ、この観音堂の中に二基の厨子が安置されている。
厨子一
中央にある厨子で、宮殿造り。屋根は入母屋造り、柿ぶき(こけらぶき)で二重垂木、妻入である。彩色が施されていて江戸もやや末期の作と思われる。
厨子二
観音堂の向かって右側にある。宝形、板葺き屋根、黒漆塗りで簡素ではあるが品格の高いものである。江戸も中期以降の作と思われる。
(藤枝市教育委員会)
蓀園河埜先生之墓
河野蓀園碑文案内
十石坂観音堂案内
宝暦13年(1763)の西国供養塔
西行法師御忌塔
河野蓀園碑文
文政3年(1820)の萬霊塔
奉納絵馬
絵馬 「飛天」
石仏・石塔などが安置されている
十石坂観音堂
外陣・内陣を区切る繊細な彫刻の格子
十石坂観音堂正面
厨子は確認できない