岡部宿のあらまし
岡部宿は東には宇津ノ谷峠、西には大井川という難所を控えていたことから、平安時代後期より宿としての形を整え始めました。鎌倉・室町時代と発展を続け、慶長7年(1602)に宿の指定を受けました。
岡部宿は当初、川原町・本町・横町の3町で構成されていましたが、交通量の増加から寛永年間に内谷村が加わり、明治5年(1782)1月の伝馬所廃止を機に宿駅制度が急速に機能を失うまで、東海道の要衝として栄えました。
江戸時代の作家・十返舎一九の滑稽本 「東海道中膝栗毛」 にも登場します。雨中の宇津ノ谷峠で滑って転んだ弥次さんと喜多さんが、増水のため大井川が川留めと聞いて岡部宿に投宿する題に一首
「豆腐なるおかべの宿につきてけり足にできたる豆をつぶして」 交通の難所であった様子が描かれています。
当時の宿場の様子
天保14年(1843)の調べによると約1500mの町並みの中に487戸・2322人が住み、宿場の両端には岡部宿の入口を示す枡形が設けられ常夜燈が置かれていました。また宿場内には幕府からの禁令などを掲示する高札場が置かれていました。
中心部には大名や公家が宿泊する本陣が2軒、本陣の予備の宿舎である脇本陣が2軒、人馬の継立などを行う問屋場、飛脚、一般の人々が宿泊する旅籠屋などが軒を連ね、その先には茶店や米屋などの店に交じって、職人や日雇、荷物の運搬を行う人馬役の家、農家などがありました。町並みは街道沿いに広がり、裏には寺社がありました。
岡部宿の看板
岡部川沿いの旧街道
東海道岡部宿案内板