この道は、駿河国の安倍郡と志太郡の境にある宇津の山の一番低くなった鞍部にある峠道で、二つの峠越しがあった。一つは、源頼朝以後に開発された東海道本筋の通っている宇津ノ谷峠で、もう一つは、それ以前の蔦の細道の峠である。鎌倉幕府は部隊の行進が出来ない旧道を廃し、新道を開いたのが宇津ノ谷峠道である。上り下り八丁(約870m)の嶮路であった。ここで鬼退治にからむ十団子の伝説の生まれたのも、難所であった証拠であろう。
 豊臣秀吉が天正18年(1590)7月、小田原城を落とし、戦勝を誇り、蹄の音をこだまさせつつ通ったのも今は兵士共の夢のあとである。慶長6年(1601)、徳川家康が五街道を設け、交通の便を図ってからこの街道は人や物資の往来が頻繁となり、殊に参勤交代の大名行列は豪華絢爛たるもので、20万石以上の大名は武将が20騎、足軽が120人から300人もあり、一万石の大名でも5~60人の供揃えで、その行列はこの峠を埋め尽くしたことであろう。この道も明治9年(1876)、トンネルの開通によって閉ざされたが、明治初期までは上り下りする旅人の難所であった。
(藤枝市教育委員会)

旧東海道 (別名 大名街道)

東海道道標 岡部町参勤交代の道

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