興禅寺は、もと市内寺町(現在の當磐町)にあったが、その由緒は古く、臨済寺開創で家康の修学の師でもあった太原和尚(雪斎長老)を開山に請じて、天正11年(1583)俊岳和尚が創建した寺である。その後、様々な歴史を経て、明治33年(1900)第14代住職に就任したのが山本完道である。
 完道和尚は、明治4年(1871)、手越の米商山本良助の三男として生まれた。信仰心の厚い父の薫陶を受け、禅書を渉蝋しつつ僧籍に入り、花園学院、東大寺、法隆寺勧学院で研鑽を積んで禅学の蘊奥(うんおう)を究め、請われて臨済宗大学主監兼教授を務めた。その学識、人格は各地の寺院住職となった教え子達から長く慕われ続けた。また、妙心寺派宗政の中心を担い宗議会議長、宗務総長等を歴任し、また市の仏教会でも活躍した。
 興禅寺住職としても孜々(しし)として寺門経営に務め、檀信徒の帰依尊崇を集めたが、老齢に入って静岡大火及び戦災による相次ぐ堂宇の類焼という不幸に見舞われた。その後、都市計画により現在地への移転、庫裡、仮本堂の建設等を進め、更には晩年の病躯を押して、新本堂再建を中心とする復興計画の立案などを整えた上孫揮道にあとを託し、昭和13年(1938)2月、88歳で遷化した。
 山本輝道は、東京大学を経て、神戸禅福寺で修行、昭和30年(1955)第15代住職に就任した。長らく教職を務めながら本堂を再建し、随身の献身的協力も得て復興残務を完成、寺観を整えるに至った。
かくて平成16年(2004)現在、400年余りの歴史のうち、正に100年に亘り、山本良助の子孫隔世2代が興禅寺住職を務めたことになり、ここにその足跡を記するものである。

興禅寺と山本住職について

手入れの行き届いた庭園

吾唯足知

吾(われ)唯(ただ)足ることを知る

観音菩薩

三界萬霊塔

屋根に付いた三つ葉葵紋

興禅寺本堂

本堂に掛かる法遍山の扁額

一枚岩に陽刻された六地蔵尊

地蔵菩薩