和光山天澤院と号する浄土宗西山派の寺院。天文7年(1538)、善空南立上人の中興開山。永禄3年(1560)5月、今川義元の軍勢が、桶狭間に到来すると、この寺の僧は酒食を献じたと伝えられる。
 この後、戦況は織田信長に有利に展開し、今川義元はこの地で討死にする。
 寺伝によれば、当山は今川義元に仕える林阿弥(りんあみ)が、今川方武将の首検証を命じられた所で、境内の方生池は、別名 「血刀濯ぎの池」 と言われている。御本尊の阿弥陀如来像は、林阿弥が駿府から持参したもので、今川義元ら戦没者を供養するために奉安されたものである。駿府から寄付された諸品の内に、今川義元の御霊像があったが、火災のために焼失したという。現在、当山に安置される今川義元像は、今川家の縁者、渡邊家(三河江原村)が、正徳4年(1714)に奉納したものである。
 当山は、信州善光寺の分身如来を奉安する知多郡の四十八願所、知多坂東三十三観音霊場、尾張新四国八十八所であるので、往昔は遍路人の姿も見ることができた。歴史上の参詣者に、尾張藩主の徳川吉通(第4代)、江戸城の無血開城に尽力した山岡鉄舟、岩倉使節団に随行した東久世通禧(みちとみ)、昭和天皇に俳句を御進講した富安風生らがいる。
 境内には、阿弥陀堂(本堂)・地蔵堂・観音堂・薬師堂・鐘楼・合同墓のほかに、林阿弥の首検証跡、血刀濯ぎの池、桶狭間発祥の地(泉)がある。

 この大杉の付近で林阿弥が首検証を命ぜられ、後供養した所で供養杉は伊勢湾台風で枯れ二代目の杉である。

今川・松井両公影像奉安置所

桶狭間合戦遺跡

二代目大杉

西国三十三所観音

鐘楼

手水舎

本堂に掛かる和光山の扁額

長福寺本堂

地蔵堂に祀られた延命地蔵菩薩

金色の厨子が安置された観音堂内陣

富安風生歌碑

木像に そなへて暗き 額の花

観音堂

長福寺略縁起

 富安風生は逓信省に入り同省の次官に栄進した一方俳人として才能を発揮した。

義元の茶坊主林阿弥が持参した阿弥陀如来像が祀られた本堂内陣