荒廃の波
 さらに年月は経ち、嘉禎4年(1238)に阿願上人が寺を再興したのを始め、幾度か再興を繰り返してきた。現在の堂塔の多くは、江戸期(正保~宝暦年間)の再建になるものである。

玉照堂の破壊
 明治期に入り、再び笠覆寺は荒廃の憂えき目に遭い、そのさなか、境内に建っていた玉照姫の安置されていた堂は失われてしまった。しかし、玉照姫・兼平公ご夫妻のご本体と御位牌は、幸いにも散逸の難を逃れ、変わらず縁結びや開運栄達の信仰を集め、長らく玉照堂の再建を待つこととなる。

昭和の復興
 昭和時代に入って住職となる政識和尚は、荒れ果てた寺を憂い、寺の再興のために各地を托鉢し、また、多くの信者の帰依も受けて真言密教の道場であるこの笠覆寺を復興、かつての壮観を取り戻した。

玉照堂の再建
 玉照堂が失われたまま100余年が経ち、ついに悲願であった玉照堂再建を果たす事となった。
 観音様とあわせて、縁結び、交際円満の信仰を集めてきた玉照姫・兼平公ご夫妻は、現在、このお堂に入られて、参拝に来る善男善女を静かに見守っている。

開祖
 呼続(よびつぎ)の浜辺に流れ着いた霊木が、夜な夜な不思議な光を放ち、人々はそれを見て恐れをなした。
 近くに住んでいた僧・善光上人は夢のお告げを受け、その霊木を彫って十一面観世音菩薩の像を作った。上人は寺を建て、そこに観音像を納め、その寺を 「天林山小松寺」 と名付けた。天平8年(736)の事である。

玉照姫と観音様
 その後、約200年の歳月が流れ、小松寺は荒廃、お堂は崩壊し、観音様は風雨にさらされるようになってしまった。
 ここに一人の美しい娘がいた。彼女は鳴海長者・太郎成高の家に仕えており、その器量を妬まれてか、雨の日も風の日も、ひどくこき使われる日々を送っていた。
 ある雨の日、ずぶ濡れになっていた観音様の姿を見た彼女は、気の毒に感じ、自分が被っていた笠を外して、その観音様に被せたのであった。
 その縁か後日、関白藤原基経公の息子、中将藤原兼平公が下向のおり、長者の家に泊まった際にその娘をみそめ、自分の妻として迎えようと決心した。
 兼平公の妻となった娘は、それから 「玉照姫」 と呼ばれることとなった。
 この観音様の縁によって結ばれた玉照姫・兼平公ご夫妻は、延長8年(930)、この地に大いなる寺を建て、姫が笠を被せた観音様を安置した。このとき寺号も小松寺から 「笠覆寺(りゅうふくじ)」 に改めた。

 これが 「笠寺観音」 「笠寺」 の名の由来である。
 以後、笠覆寺は縁結びや厄除けの寺として、多くの人々の信仰を集めることとなる。

厨子に祀られた役行者像

役行者堂

明和7年(1770)の六地蔵尊 (地蔵幢)

地蔵菩薩半跏像が祀られた地蔵堂

地蔵菩薩半跏像

 天文18年(1549)織田家に捕らえられていた竹千代(家康)と、今川家に捕らえられていた織田信広(信長の兄)との人質交換が境内で行われた。

宮本武蔵の100回忌を記念して武蔵の孫弟子によって建てられた

星崎の 闇を見よやと 啼く千鳥

ある時、旅の途中で通りかかった藤原兼平が、雨晒しの観音像を笠で覆った娘を見初め、玉照姫と名付けて妻とした縁で、この地に寺を建立し、笠覆寺と名付けた。

文政3年(1820)の仁王門 (山門)

阿形の仁王像

玉照堂

笠寺稲荷

白瀧大神

弁財天

おもかる地蔵尊

本堂内陣

宝暦13年(1763)の笠覆寺本堂

吽形の仁王像

放生池に架かる文化3年(1806)の太鼓橋

笠寺観音と玉照姫の歴史

貞享元年(1684)の鐘楼堂

水掛地蔵尊が安置された手水舎

水掛地蔵尊と手水石

笠寺善光寺堂

正保元年(1644)の多宝塔

人質交換之地碑

延享元年(1744)の宮本武蔵之碑

享保14年(1729)の千鳥塚

玉照姫 ・ 藤原兼平

御堂に掛かる玉照姫の扁額