年代不詳の 「駿公墓碣」 と刻まれた墓碑

昭和8年の今川義元公墓碑

義元公の馬をつないだと言われる 「ねずの木」

大田錦城の漢詩碑

織田信長と今川義元の銅像

今川義元戦死之地碑

義元公首洗いの泉

今川義元公の首をこの泉で洗い清めたと言われ、昭和61年の区画整理まで清水が豊富に湧き出ていた。

通解
 丘陵の荒原、桶狭間の古墳の前に往時を偲び感慨に耐えない。永禄3年5月19日お今川義元は、緒戦の勝利に奢り高ぶり油断をしていた。果せるかな空はかき曇り怪しい風は嵐を呼び闇の如くなった。その時、突如織田の奇兵に襲われ、「敵は天より降るか」と慌てたが時すでに遅く敗北してしまった。

 大田錦城は江戸時代後期の儒学者で、文政3年(1819)旅の途中、桶狭間の古戦場を訪ね、往時を偲んで詠んだ。

 着陣した義元が田楽坪の泉で水を飲むために馬をつないだと言われ、田の中に「ねず塚」として残されてきたものを移植した。

 田楽坪のねず塚から発掘されたもので、当時の村人が敗軍の将を弔うことをはばかり墓石を埋めて供養したと考えられている。