ここ宮(熱田)の宿・神戸の浜から桑名宿まで東海道では唯一の海上七里の海路で、東西の人々の行き交いが盛んであった。 名古屋の本草学者水谷豊文、その門下生伊藤圭介、大河内存真らは、ドイツ人医師シーボルトが文政9年(1826)2月オランダ使節に随行して江戸へ参府する際と、 4月長崎への帰路、宮の宿で会見し、教えを受けた。 彼らは名古屋の医学・植物学の研究に多大な貢献をした。
   名古屋市教育委員会

 この地は宮(熱田)の神戸の浜から、桑名までの海上七里の航路の船着場跡である。 常夜灯は寛永2年(1625)藩の家老である犬山城主成瀬正房(正虎)が、父正成の遺命を受けて須賀浦太子堂(聖徳寺)の隣地に建立した。 その後風害で破損したために、承応3年(1654)に現位置に移り、神戸町の宝勝院に管理がゆだねられた。 寛政3年(1791)付近の民家からの出火で焼失、同年、成瀬正典によって再建されたが、その後荒廃していたものを昭和30年復元した。
    名古屋市教育委員会

 延宝4年(1676)尾張藩主光友の命により熱田蔵福寺に時の鐘が設置された。正確な時を知らせるこの鐘は熱田に住む人々や東海道を旅する人々にとって重要な役割を果たしていた。
 昭和20年の戦災で、鐘楼は焼失したが、鐘は損傷も受けずに今も蔵福寺に残っている。
 熱田の古い文化を尊ぶ市民の声が高まり、往時の宮の宿を想い起こすよすがとしてこの公園に建設したものである。
 昭和58年3月  名古屋市

 この絵は七里の渡しを描いたもので、道沿いに並ぶ旅籠屋などの家々や、岸につながれた船、道を行き交う人の多さから当時の賑わいがわかります。
 この渡し場は城下町名古屋の玄関口としても人と物資の輸送の面で重要な役割を果たし、そのため尾張藩は東西浜御殿のほか、浜鳥居の西に船番所、船会所などの役所を設け、船の出入りや旅人の姓名などを記録していました。

 松尾芭蕉(1644-94)は、日本を代表する俳人で、「野ざらし紀行」 「おくの細道」 や 「古池や蛙飛込む水の音」 などの句が有名です。
  「この海に 草鞋捨てん 笠しぐれ」
  「海暮れて 鴨の声 ほのかに白し」
  「なんとはなしに 何やらゆかし すみれ草」
 この舟遊びで五・五・七の歌などを開拓し、生涯作風が十二たび変化する 「芭蕉の時代」 となるきっかけが生まれました。後に名古屋が 「蕉風発祥の地」 と言われる由縁です。
 また、熱田神宮が 「蓬莱宮」 と読んだのに因み、芭蕉は名古屋を(京都から見て)蓬左として、書状などに度々使っています。

江戸時代、東海道の宿駅であった熱田は 「宮」 とも呼ばれ、桑名までの海路 「七里の渡し」 の舟着場としても栄えていた。 寛永2年(1625)に建てられた常夜灯は航行する舟の貴重な目標となっていましたが戦災で焼失し、その後昭和58年に復元されて往時の名残をとどめています。 歌川広重による 「東海道五十三次」 の中にも、宮の宿舟着場風景が描かれており、当時の舟の発着の様子を知ることができます

熱田湊常夜燈

尾張名所図会

七里渡船着(尾張名所図会)説明

七里の渡し舟着場跡説明

時の鐘

七里の渡し碑

宮の宿とシーボルト

船着場

松尾芭蕉と七里の渡し

東海道五十三次(隷書東海道)宮